第5話「最初の救い」
意識が戻ってきた。
ゆっくりと。
とても、ゆっくりと。
深い闇の底から浮上するように、少しずつ。まるで、深い海の底から光の方へ泳いでいくように。
最初に感じたのは、痛みだった。
全身が痛い。
ズキズキと。
頭が痛い。割れるように。肋骨が痛い。刺すように。足が痛い。焼けるように。
でも——
生きている。
確かに、生きている。
この痛みが、それを証明している。痛いということは、生きているということだ。
「…ん」
声を出そうとするが、喉が渇いていて声にならない。カラカラだ。唇も乾いている。ひび割れている。舌が、口の中に張り付いている。
目を開ける。
ぼんやりとした視界。霧がかかったような。少しずつ、焦点が合ってくる。天井が見える。木造の天井。見覚えのない天井だ。
ここは…どこだ?
城の牢獄?それとも…
「気がついた?」
女性の声が聞こえた。優しい、でもどこか凛とした声。顔を横に向けると、一人の女性が椅子に座っている。
銀色の髪。
肩まで伸びた、艶やかな銀髪。
光を反射して、キラキラと輝いている。まるで、月光のように。鋭い目。でも、その目には優しさが宿っている。矛盾しているようで、不思議と調和している。
年齢は…十九歳くらいだろうか。
腰に剣を帯びている。
革の鎧を着ている。
剣士、だろうか。
その佇まいから、ただの飾りではないことが分かる。実戦を経験した、本物の戦士だ。
「あ…あなたは…」
かすれた声が出る。ガラガラと。喉が痛い。
「エリシア。剣士よ」
女性——エリシアは、微笑んだ。柔らかな笑顔。その笑顔に、わずかに緊張が和らぐ。
「あなた、よく生きてたわね」
エリシアの言葉に、現実が戻ってくる。
「俺は…」
記憶が蘇ってくる。鮮明に。
城門から追い出されて。
宿を次々と断られて。
そして——
冒険者二人にリンチされた。
痛みの記憶が、体に残っている。拳の感触。ズシンという衝撃。蹴りの衝撃。ドスッという音。地面に倒れた時の冷たさ。ヒヤリとした。全てが、昨日のことのように生々しい。
「そうだ…あの二人に…」
「ああ、あの冒険者たちね」
エリシアが静かに頷く。その表情に、わずかな怒りが浮かんでいる。眉をひそめている。
「私が見つけた時には、もう去った後だったわ」
「あなた、路地裏で血まみれで倒れてたの」
「最初、死んでるかと思ったわ」
エリシアが立ち上がり、窓の外を見る。朝の光が差し込んでいる。その銀髪を照らして、輝かせている。
「でも、まだ息があった」
「弱いけど、確かに息をしてた」
「だから、ここに連れてきたの」
その言葉に、胸が熱くなる。見ず知らずの俺を、助けてくれた。
「ここは…?」
「私のアジトよ」
「隠れ家なの」
「誰も来ない場所」
部屋を見渡す。簡素だが、清潔だ。ベッド、机、椅子、棚。必要最小限のものだけがある。武器や装備が壁に立てかけられている。剣、盾、予備の鎧。剣士の隠れ家らしい。
「手当て…してくれたんですか?」
体中に包帯が巻かれている。頭、胸、腕、足。丁寧に巻かれた包帯。全身が包帯だらけだ。まるで、ミイラのように。
「当然よ」
エリシアが言う。その口調は軽いが、目は真剣だ。
「放っておいたら死んでたわ」
「肋骨が三本折れてるの」
「鼻も骨折」
「頭も割れてたわ」
「よく生きてたわね、本当に」
エリシアが俺の隣に座る。ベッドが少し軋む。ギシッと。
「一応、回復魔法もかけたんだけど…」
「回復魔法…?」
この世界には、魔法がある。召喚の時に見た、あの恐ろしい魔法陣。でも、回復魔法なら…
「そう。でも、効果は期待しないで」
「私、魔法が得意じゃないから」
エリシアが苦笑する。その表情には、少しの照れくささがある。
「まぁ、怪我が早く治るおまじない、とでも思ってて」
「私はマナの総量が少ないのよ」
「ほとんどの魔法の発現に必要な力が足りないの」
「だから剣の方が得意なのよ」
「魔法は専門外」
魔法。
この世界には、魔法がある。
召喚の時に見た、あの巨大な魔法陣。
メガマナという力。
あの金色に輝く、危険な大地の力。
十二人の魔導士を灰にした力。
そして、マナという力。
人が魔法を発現する時に使う、体内で生成される力。
エリシアが使ったのは、そのマナを使った魔法なのだろう。メガマナほど危険じゃない、一般的な魔法。
「助けてくれて、ありがとうございます」
精一杯の感謝を込めて言う。声が震える。涙が出そうになるのを、必死に堪える。目が熱い。
「礼はいいわ」
エリシアが手を振る。
「それより…」
エリシアが真剣な表情になる。そして、俺をじっと見つめる。その視線は、鋭く、何かを見抜こうとしている。
「あなた…本当に勇者になりすまそうとした偽勇者なの?」
その問いに、胸が締め付けられる。ギュッと。やはり、噂は広まっているのか。
「違います」
即座に答える。はっきりと、強く。
「なら、本物の勇者?」
エリシアの問いに、言葉が詰まる。本物の勇者?適合率0.001%の俺が?
「わかりません」
「俺は…ただの会社員で…」
なんて答えたらいいか分からず、言葉が続かない。どこから説明すればいいのか。異世界から来たなんて、信じてもらえるのか?
「落ち着いて」
エリシアが優しく言う。その声に、焦りが少し和らぐ。温かい声。
「ゆっくりでいいわよ。話せる?」
「…はい」
深呼吸をする。肋骨が痛むが、耐える。ズキンと。話さなければ。この人は、俺を助けてくれた。信じてくれるかもしれない。
そして、全てを話した。
元の世界のこと。
ブラック企業で働いていたこと。
終わらない残業、理不尽な上司、削られていく心と体。
突然、異世界に召喚されたこと。
訳も分からず、光に包まれて、気づいたら玉座の間にいたこと。
十二人の魔導士が、目の前で灰になったこと。
その光景が、まだ目に焼き付いている。
崩れ落ちる体。
悲鳴。
絶望。
適合率0.001%と判定されたこと。
一般人以下。
使い物にならない。
そう言われたこと。
偽勇者の烙印を押されたこと。
魔王の手の者という濡れ衣。
勇者召喚を妨害した存在。
国外追放を宣告されたこと。
一ヶ月の猶予。
その間に国を出ろ。
二度と戻るな。
そして、今日起きたこと。
宿を次々と断られたこと。
怪しまれ、恐れられ、拒絶されたこと。
冒険者にリンチされたこと。
「正義の制裁」と称して、容赦なく殴られ、蹴られたこと。
全てを、一気に話した。
途中、何度も息が苦しくなった。肋骨が痛んだ。ズキズキと。声が震えた。でも、なんとか最後まで話し切った。言葉にすることで、少しだけ楽になった気がする。
信じてもらえるかはわからない。けれど、話すと少し気が楽になった。誰かに聞いてもらえた。それだけで、少し救われた気がした。
エリシアは、黙って聞いていた。
表情を変えず。
ただ、じっと俺の目を見ながら。
真剣な目で。
途中、何度か眉をひそめたり、拳を握りしめたりしていたが、最後まで口を挟まなかった。
話し終えると、しばらく沈黙が続いた。シンと。エリシアは、窓の外を見ている。何を考えているのか、分からない。
(信じてもらえないかもしれない)
(でも、これが真実なんだ)
(これ以上、嘘はつけない)
「…そう」
エリシアが、静かに口を開いた。
「信じて…もらえますか?」
声が震える。拒絶されるのが怖い。でも、聞かずにはいられない。心臓がドクドクと鳴る。
「うん、信じる」
あっさりとした返答に、驚く。
「え…?本当に?」
「うん、本当に」
エリシアが俺を見る。その目は、真っ直ぐで、嘘がない。
「なんでかな、あなたが嘘をついていると思えないの」
「その目、嘘をつく人の目じゃないわ」
その言葉に、涙が溢れそうになる。信じてもらえた。やっと、誰かが信じてくれた。
「それにしても」
エリシアが振り返る。その表情に、怒りが浮かんでいる。眉間に深い皺が寄っている。
「魔王が復活するかもしれないから勇者を召喚する」
「まあ、そこまでは分かる」
「王国の存亡がかかってるんだもの」
「でも、その勇者を召喚直後に追放?」
「濡れ衣を着せて、冒険者にリンチさせるなんて?」
エリシアの声に、怒りが滲む。拳が、小さく震えている。ギュッと握りしめている。
「あまりにも、身勝手で酷すぎる」
「人としてどうかしてるわ」
その言葉に、涙が出そうになった。目が熱くなる。
追放されてから、誰も味方がいなかった。
全員が敵だった。
石を投げる目。
罵る声。
拒絶する態度。
全てが、俺を否定した。
でも、エリシアは——
怒ってくれた。
俺のために。
俺の味方になってくれた。
「エリシア…さん」
声が震える。もう、涙を堪えきれない。
「エリシアでいいわ」
エリシアが微笑む。その笑顔が、とても優しい。温かい。
「さん付けは堅苦しいもの」
「私たち、もう友達でしょ?」
「…エリシア」
呼び捨てにすることに、少し戸惑う。でも、エリシアは嬉しそうに頷いた。
「うん、それでいいわ」
「あなたは何も悪くないの」
エリシアがきっぱりと言う。その声には、一片の迷いもない。断言する。
「悪いのは、王国よ」
「理不尽な権力を振りかざして、人の命を何だと思ってるのか」
「でも…俺は…」
弱かった。無能だった。だから、こんなことになった。
「あなたは何も悪くないわ」
「それに、適合率が低かったからってあなたが弱いなんて事はない」
「むしろ、あなたは強いわ」
エリシアが繰り返す。その目が、真剣に俺を見つめている。
「勝手に召喚されて、勝手に追放されて、勝手に迫害されたのよ」
「そして、死にかけた」
「普通なら、もう心が折れてる」
「生きる気力なんて残ってないわ」
「それなのに…」
エリシアが俺を見る。
「あなたの心はまだ折れてない」
「諦めてない」
「え…?」
「こんな目に遭わされて、ボロボロにされても、まだ、生きようとしてる」
「その目は、死んでないわ」
「それって、すごく心が強いってことよ」
その言葉に、胸が熱くなった。ジーンと。
(俺は…強い?)
社畜時代、何度も理不尽に耐えてきた。
上司の罵声に。
長時間労働に。
無茶な納期に。
何度も心が折れそうになった。
でも、諦めなかった。
歯を食いしばって、耐え続けた。
それが、今も残っている。
あの社畜生活が——
皮肉にも、俺の精神力を鍛えたのかもしれない。
「あなたの名前は?」
エリシアが尋ねる。
「山本拓海です。拓海と呼んでください」
「タクミね。いい名前」
エリシアが真剣な目で俺を見る。その目が、決意に満ちている。
「ごめんなさい」
「え…?」
なぜ、エリシアが謝るのか。理解できない。
「あなたは、この国を救うために、魔王を倒すために来たのに」
「なのに、こんな仕打ちを受けたわ」
「王国の一人の民として、私も謝らせて」
エリシアが深く頭を下げる。
「辛い思いをさせた」
「本当に、申し訳ないわ」
「エリシア…顔を上げて…」
違う。エリシアは悪くない。悪いのは、王国だ。リオルだ。国王だ。
「償いとして」
エリシアが顔を上げる。その目は、強い決意に満ちていた。燃えるような目。
「あなたを鍛える」
「鍛える…?」
「ええ。この世界で生きるために、自衛できる力は必要だわ」
エリシアが続ける。
「それから、隣国まで送るわ」
「ここから東に五日ほど行けば、隣国の国境があるの」
「そこを越えれば、この国の法は及ばないわ」
「あなたが安全に国境を越えられるまで、私が責任を持つから」
「でも…そんな…」
「それまでは、私がタクミを守るわ」
エリシアが断言する。きっぱりと。その声に、迷いはない。
「約束する」
その言葉に、涙が溢れた。もう、堪えきれない。ポロポロと。温かいものが、頬を伝う。
「ありがとう…」
「ありがとう、エリシア…」
声が震える。敬語が消えていた。自然と、親しみを込めた言葉が出る。エリシアの優しさが、凍りついた俺の心を、少しずつ溶かしていく。温かい。
「泣かないで」
エリシアが優しく微笑み、そっと頭を撫でる。その手が、温かい。
「これから一緒に頑張りましょうね。タクミ」
「ああ…!」
力強く答える。涙を拭う。もう、泣いてばかりはいられない。
(やっと…)
(やっと、希望が見えた)
追放されてから、ずっと絶望していた。
真っ暗な闇の中を、一人で彷徨っていた。
出口なんてない。
そう思っていた。
でも、エリシアと出会って——
小さな光が見えた。
希望が見えた。
強くなれるかもしれない。
この世界で、生き延びられるかもしれない。
「さて」
エリシアが立ち上がる。スッと。
「まずは体を治すことね」
「治ったら出発」
「ここは危険だわ」
「私のアジトだけど、絶対安全とは言えない」
「剣の訓練は、移動の合間に教えるわ」
「分かった!」
力強く答える。
「それと」
エリシアが指を立てる。
「ここにいる間は、家事を手伝ってもらうわよ」
「料理、掃除、洗濯ね」
「もちろん!」
即答する。恩人だ。できることは何でもする。
「私の訓練は厳しいわよ」
エリシアが真剣な表情になる。その目が、鋭く光る。
「容赦しないからね」
「泣き言は聞かないわ」
「望むところだ」
俺も真剣に答える。
「強くなりたいんだ」
「もう、誰にも虐められないために」
「理不尽に屈しないために」
エリシアが満足げに頷く。
「うん、いい目をしてる」
「その目、嫌いじゃないわ」
「じゃあ、決まりね」
エリシアが微笑む。明るい笑顔。
「よろしくね、タクミ」
「よろしく、エリシア」
握手する。エリシアの手は、小さいが、しっかりしている。剣を握り続けた手だ。ゴツゴツとした感触。でも、温かい。
こうして、俺とエリシアの、本当の出会いが始まった。
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それから三日が経った。
体の傷は、だいぶ良くなった。エリシアの手当てが丁寧で、回復魔法の効果もあって、予想以上に治りが早い。まだ痛みはあるが、動けるようになってきた。
「順調ね」
エリシアが包帯を巻き直しながら言う。その手つきは、慣れている。優しく、でも確実に。何度も、こうして誰かの傷を手当てしてきたのだろう。
「エリシアのおかげだ」
「もう少しで出発できそうね」
「ああ。訓練が楽しみだ」
本心からそう答える。強くなりたい。もう、あんな目には遭いたくない。
「ところで、タクミ」
エリシアが窓の外を見る。朝の光が差し込んでいる。
「隣国までの移動についてだけど」
「移動…?」
「うん、タクミは馬に乗れる?」
馬。乗馬なんて、したことがない。
「馬なんて乗ったことない」
「そっか。なら、私の後ろに乗って。二人乗りね」
エリシアが笑う。
「私の知り合いに、馬を持ってる商人がいるの」
「頼めば、譲ってくれるわ」
「でも、馬って高いんじゃ…」
「大丈夫よ」
エリシアが軽く笑う。
「馬の代金は私が出すから」
「心配しないで」
「え…でも、そんな…」
申し訳ない。これ以上、迷惑はかけられない。
「いいのよ」
エリシアがきっぱりと言う。
「私があなたを守るって約束したんだもの」
「隣国まで無事に送り届けるのが、私の責任よ」
「だから、遠慮しないで」
「エリシア…」
その優しさに、胸が熱くなる。どうして、ここまでしてくれるのか。温かい。
「本当に…ありがとう」
「礼はいいわ」
エリシアが微笑む。
「でも…」
エリシアが少し考え込む。眉をひそめる。その表情が、少し曇る。
「国境まで行くとして、その後はどうするの?」
「その後…?」
「隣国で、あなたはどうやって生きていくの?」
エリシアが心配そうに言う。
「金もない、仕事もない、身寄りもないわ」
「大丈夫なの?」
「それは…」
確かに、考えていなかった。国を出ること。それしか、頭になかった。その先のことなんて、考える余裕もなかった。
「まあ、今は考えなくてもいいわ」
エリシアが言う。
「まずは体を治すこと」
「そして訓練して、強くなることね」
「それができれば、隣国でも何とかなるわ」
「冒険者として生きる道もあるしね」
「冒険者…」
「ええ。隣国のギルドなら、あなたの過去は関係ないわ」
「新しく登録できるの」
「ゼロからのスタートね」
エリシアが続ける。
「そのためにも、強くならないとね」
「ああ…そうだな」
希望が見えてきた。少しずつ。隣国で、冒険者として生きる。新しい人生が、始められるかもしれない。
「じゃあ、今は休みなさい」
エリシアが立ち上がる。
「体が治らないと、何も始まらないからね」
「分かった」
「夕飯は私が作るわ」
エリシアが微笑む。
「楽しみにしててね」
「腕によりをかけるから」
エリシアが部屋を出ていく。パタンと扉が静かに閉まる。
一人になると、今日のことを思い返す。
エリシアとの会話。
これからの計画。
隣国へ行く。
そこで、冒険者として生きる。
新しい人生を始める。
(やり直せる…)
希望が、心に芽生えている。小さな、でも確かな希望。もう、あの暗闇の中にはいない。温かい。
窓の外を見ると、星が輝いている。異世界の星空。キラキラと。見たことのない星座。でも、もう怖くない。
エリシアがいる。
守ってくれる人がいる。
信じてくれる人がいる。
(俺は、一人じゃない)
その実感が、胸を温かくする。凍りついていた心が、少しずつ溶けていく。ジワジワと。
「ありがとう、エリシア」
小さく呟いて、目を閉じる。
明日も、エリシアと話そう。
訓練のこと、これからのこと。
色々と、決めることがある。
でも——
もう、怖くない。
一人じゃないから。
その安心感に包まれながら、深い眠りに落ちていった。穏やかな、温かい眠りに。
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