第1話「ブラック社畜、異世界へ」
午後十一時三十七分。
オフィスの蛍光灯が、俺のデスクを容赦なく照らしている。まるで、逃げ場のない舞台のスポットライトのように。周囲は静まり返っていて、自分のキーボードを叩く音だけが妙に大きく聞こえる。
カタカタカタカタ。
その音が、静寂の中で響く。
「山本、この資料まとめといて。明日の朝までね」
上司の鈴木が、俺の机に分厚いファイルの束を投げるように置いた。ドサッという重い音が響く。百ページは軽く超えている。ずっしりと重い。
「え…でも、これ…」
言いかけて、口を閉じた。
鈴木の目が冷たく光っている。
氷のような目。
この視線を知っている。断れば、翌日の朝礼で吊し上げられる。「協調性がない」と評価シートに書かれる。最悪、次の人事考課で降格だ。
(また…か)
諦めの感情が、心を支配する。まるで、重い鉛が胸に沈んでいくような感覚。
(断れない)
(断ったら、終わりだ)
「…やります」
「そう。じゃ、よろしく」
鈴木は軽い足取りで去っていく。
コツコツという革靴の音。
その音が、だんだんと遠くなる。
定時は午後六時だった。今、午後十一時三十八分。すでに五時間以上の残業。そして、これから百ページ以上の資料をまとめる作業が待っている。
「はぁ…」
深いため息が漏れる。
肺の中の空気が、全部出ていくような。
デスクの引き出しを開ける。栄養ドリンクが五本並んでいる。今月買い足した分だ。一本取り出して、プルタブを開ける。
プシュッという音。
一気に飲み干す。
苦くて甘ったるい液体が喉を通る。まるで、薬のような味。胃に落ちていく感覚が妙にリアルだ。ズシンと重い。
今月、何本目だろう。
もう数える気力もない。
山本拓海、二十四歳。
大学を卒業して二年。この会社——大手と言われる総合商社に入社したのは、「安定している」という理由だった。親も喜んでくれた。
「大手に就職できるなんて、立派じゃないか」
父の嬉しそうな顔を、今でも覚えている。
笑顔だった。
友人たちも羨ましがった。期待と羨望の視線。みんな、俺を見上げていた。
でも、現実は違った。
残業は月に百二十時間を超える。休日出勤は当たり前。有給休暇? 入社してから二年間で、一度も使ったことがない。使おうとすると、上司に睨まれる。
「今、繁忙期なんだけど」
「チームのことを考えてる?」
結局、諦める。
いや、諦めさせられる。
断る選択肢なんて、最初からなかった。
カタカタカタカタ。
キーボードを叩く音だけが響く。
周りを見渡す。同じフロアに、まだ五人残っている。全員、疲れ切った顔でモニターを見つめている。
窓際の席にいる田中さんは、目の下に濃いクマを作っている。二十代後半のはずなのに、三十代後半に見える。いや、四十代にも見える。
課長の佐藤さんは、入社時の写真と比べると別人だ。髪が薄くなり、顔色も悪い。
みんな、死んだ目をしている。
鏡を見るのが怖い。二年前の自分と今の自分。別人だ。頬はこけ、目の下にはクマができ、肌は荒れている。体重は入社時より七キロ減った。
骨と皮だけになった気がする。
先月の健康診断では、「要精密検査」の項目が三つもあった。でも、精密検査に行く時間なんてない。行こうとすれば、また上司に睨まれる。
時間がない。
余裕もない。
「山本、使えないな」
「山本、もっと頑張れよ」
上司からの言葉は、いつもそんなものばかりだ。褒められたことなんて、一度もない。できて当たり前。できなければ無能。そういう世界だ。
俺…何のために生きてるんだろう。
仕事のために生きているのか。
それとも、生きるために仕事をしているのか。
もう、分からない。
境界線が、曖昧になっている。
ただ、毎日を生き延びるので精一杯だ。
資料を開く。取引先の売上データ、市場分析、競合比較、今後の展望。全てをエクセルにまとめて、グラフを作成し、パワーポイントで資料を作る。
明日の朝までに。
午前零時。
資料の十五ページ目。
目がかすむ。文字が二重に見える。いや、三重にも見える。肩が痛い。首も痛い。腰も痛い。全身が悲鳴を上げている。
二本目の栄養ドリンクを取り出す。
また一気に飲み干す。
もう味なんて感じない。ただ、カフェインを体に流し込んでいるだけだ。機械のように。
あと八十五ページ…。
遠い。
遠すぎる。
まるで、砂漠の向こうにあるオアシスのように。
午前一時。
資料の三十ページ目。
給湯室でコーヒーを淹れる。インスタントコーヒーの粉末を、マグカップに山盛り入れる。濃い方が、目が覚める。
熱湯を注いで、砂糖もスプーン三杯入れる。
一気に飲む。
「熱っ…!」
舌を火傷した。
ヒリヒリと痛い。
でも、構わない。痛みで、少しだけ意識がはっきりする。この痛みが、俺を現実に繋ぎ止める。
給湯室の窓から外を見る。
夜の東京。
ビルの明かりが、まだたくさん灯っている。星のように、街中に散らばっている。
(みんな、働いてるんだな)
俺だけじゃない。
この街のどこかで、誰かも同じように働いている。
(でも、それは慰めにならない)
むしろ、絶望的な気持ちになる。
(この国、狂ってる)
デスクに戻る。
モニターを見る。青白い光が、顔を照らす。まだ七十ページ残っている。果てしなく遠い。
再び、キーボードを叩き始める。
カタカタカタカタ。
午前二時。
資料の五十ページ目。
ようやく半分。
でも、もう限界だ。
目を開けているのも辛い。まぶたが重い。まるで、鉛のように。何度も何度も、意識が飛びそうになる。視界が暗くなる。また明るくなる。
意識が、行ったり来たりする。
(寝たら…終わりだ)
(起きろ…起きろ…!)
頬を叩く。
パチン。
パチン。
自分に言い聞かせる。
三本目の栄養ドリンクを飲む。もう、効いているのかも分からない。ただ、飲まずにはいられない。儀式のように。
(体が…限界だ…)
(でも、止まれない)
(止まったら…)
午前三時。
資料の七十ページ目。
手が震えている。小刻みに。キーボードを打つ指が、うまく動かない。誤字が増える。消して、打ち直す。また誤字。また消す。
くそ…くそ…。
涙が出そうになる。目が熱い。
でも、泣いたところで何も変わらない。それは、この二年間で学んだ。泣いても、状況は良くならない。弱音を吐いても、誰も助けてくれない。
誰も。
だから、耐える。
ただ、耐える。
社畜として、耐え続ける。
それが、俺の人生だ。
それしかない。
午前四時三十分。
ようやく、資料が完成した。
「終わった…」
声が枯れている。喉が渇いている。砂漠のように。体中が痛い。全身が悲鳴を上げている。
でも、もう動く気力もない。
ただ、椅子に座ったまま、ぼんやりとモニターを見つめる。青白い光が、顔を照らす。
(これで…帰れる)
よろよろと立ち上がる。
足がふらつく。まるで、酔っ払いのように。壁に手をつきながら、なんとか歩く。一歩、また一歩。
ロッカーで荷物を取る。
スマホ、財布、定期券。
全てを確認して、ロッカーを閉める。
エレベーターホールへ向かう。
廊下が長い。やけに長く感じる。まるで、永遠に続くトンネルのように。
ようやくエレベーターホールに着く。
ボタンを押す。
エレベーターが来るのを待つ。その間も、立っているのが辛い。体が重い。壁に寄りかかる。
もう…限界だ…。
体が悲鳴を上げている。
心も悲鳴を上げている。
でも、明日も同じことの繰り返しだ。午前八時に出社。上司に資料を提出。新しい仕事を押し付けられる。
会議、電話対応、資料作成。
定時を過ぎても、帰れない。
残業、残業、残業。
そして、深夜に帰宅。シャワーを浴びて、ベッドに倒れ込む。三時間だけ眠る。
翌朝、また同じことの繰り返し。
永遠に続くループ。
いつまで続くんだ、これ…。
絶望が、心を満たす。
真っ黒な絶望が、胸の中を埋め尽くす。
チーン。
エレベーターが到着した。
扉が開く。
中に入ろうとした、その瞬間——
視界が真っ白になった。
「え…?」
突然、足元から光が溢れ出す。眩しい。目を開けていられないほど眩しい。まるで、太陽を直視したかのように。
「な、何だ…!?」
床が光り輝いている。
いや、床だけじゃない。
壁も、天井も、空気そのものが光っている。
金色の光。
世界が、光に包まれていく。
「誰か…!助けて…!」
叫んでも、誰も来ない。
当たり前だ。この時間、もう誰もいない。
声が、虚しく響く。
光がどんどん強くなる。腕で顔を覆うが、光は遮れない。まぶたを通して、光が脳に突き刺さる。
熱い。
体が熱い。
まるで、燃えているかのように。
そして——
体が浮いた。
「うわああああっ!」
重力が消える。
いや、違う。
引っ張られている。
どこか別の場所へ。猛烈な速度で。見えない手が、俺を掴んでいる。
光の奔流の中、体が引きずられていく。風が吹き荒れる。いや、風じゃない。何か別の力だ。耳が痛い。目が痛い。全身が痛い。
これは…夢?
それとも…死んだのか?
過労死…?
皮肉な笑いが、心の奥底に浮かぶ。社畜として死ぬなんて、なんとも情けない最期だ。
でも、もういいかもしれない。
あの苦しみから解放されるなら——
意識が、暗闇に落ちていった。
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気がつくと、硬い床に倒れていた。
「…痛い」
体中が痛む。
背中が痛い。肘が痛い。頭も痛い。
でも、確かに感覚がある。痛みがある。
生きている。
ゆっくりと目を開ける。
天井が見える。
高い。
異様に高い天井。まるで、大聖堂のように。照明が、煌々と輝いている。
「ここは…?」
体を起こす。
背中が痛む。
周りを見渡す。
石造りの床。滑らかに磨かれた大理石のような床。冷たそうだ。高い天井。壁には豪華な装飾が施されている。
全てが、荘厳で、威圧的だ。
まるで、城の中のように。
そして、目の前には——玉座。
巨大な玉座に座る、王冠を被った老人。白い長い髭。深紅のマントを羽織っている。威厳がある。
その周りを取り囲む、豪華な衣装をまとった人々。十人、いや、二十人以上いる。男も女も、金や銀の刺繍が施された服を着ている。
貴族、だろうか。
そして、床には不思議な模様が描かれている。幾何学模様。円が重なり合い、その中に古代文字のようなものが刻まれている。金色に光っている。
魔法陣、だろうか。
その中心に、俺は倒れていた。
「こ、これは…!」
慌てて立ち上がろうとする。
しかし、足がもつれる。力が入らない。
「うわっ…!」
バランスを崩して、膝をつく。
痛い。
周囲から、声が聞こえる。
「勇者召喚は成功したのか」
「いや、でも、なんだか頼りないな」
「大丈夫か?」
ざわついている。好奇の目。
王冠を被った老人が咳払いをする。すると、先程までのざわつきが嘘のように静まり返った。
「手を貸してやれ」
低く威厳のある声だった。
近くにいた兵士が駆け寄り、俺に肩を貸してくれた。
「大丈夫ですか?」
「あ、はい。大丈夫です」
兵士に支えられながら、なんとか立ち上がる。
足が震える。
でも、それどころじゃない。
(ここは…どこだ?)
(俺は…何でここにいる?)
混乱する頭で、必死に考える。確か、エレベーターホールにいた。そして、光に包まれて——
それから、記憶がない。
真っ白だ。
「勇者よ、ようこそ」
玉座の老人が、言った。
「我が名はアルヴァネス。この王国、アルヴァニア王国の国王である」
「ゆ、勇者…?」
(何を言っているんだ、この人は)
(国王? 王国?)
(ファンタジー?)
「そなたは、我らが王国の召喚魔法陣により、異世界より召喚された勇者である」
「異世界…召喚…?」
言葉の意味は分かる。
でも、理解できない。
頭が追いつかない。
(異世界?)
(召喚?)
(そんなの、ファンタジー小説やアニメの中の話だ)
(現実に起こるわけがない)
「これは…夢?」
思わず呟く。
そうだ、夢に違いない。疲れすぎて、幻覚を見ているんだ。
「夢ではない」
玉座の横から、誰かが一歩前に出る。
金髪の青年だ。
二十代半ばくらいだろうか。整った顔立ち。
しかし、その目は冷たい。氷のような、感情の見えない目。人を見下す目。
「我が名はリオル。この国の王太子だ」
「王太子…」
「そなたは、確かに異世界より召喚された」
男が俺を見下ろす。
上から目線だ。
「信じられぬのも無理はない。だが、これは現実だ」
現実。
この言葉が、重くのしかかる。
周りを見渡す。石造りの壁。中世ヨーロッパのような建築様式。煌びやかな衣装を纏った人々。床に描かれた魔法陣。
全てが、現実離れしている。
でも——確かに、ここにいる。
この感覚は、夢じゃない。床の硬さ、空気の冷たさ、周囲の視線。全てが、リアルだ。
痛いほどリアルだ。
「俺が…勇者…?」
信じられない。
まるで、冗談のようだ。
(ただの社畜が、勇者?)
(使い捨てられてた俺が?)
「さよう」
国王が頷く。
「我が国は今、未曾有の危機に瀕している」
「危機…?」
「魔王が、復活の兆しを見せているのだ」
魔王。
またファンタジーの単語が出てきた。次から次へと。
「魔王は百年前、初代勇者によって封印された」
国王が続ける。
「だが、その封印が弱まっている」
「封印が弱まると…どうなるんですか?」
「魔王が復活する」
リオルと名乗った男が答える。冷たい声で。
「現在、我が王国と魔王の国は均衡を保っている。だが、魔王が完全に復活すれば——その均衡は崩れるだろう。魔王の力が増大し、我が国は滅ぼされる」
「…」
言葉が出ない。
スケールが大きすぎる。
「故に、我らはそなたを召喚した」
国王が手を挙げる。その手には、大きな指輪が光っている。
「魔王を討伐するために」
討伐。
つまり、戦えということか。
俺が?
ブラック企業で働くただのサラリーマンの俺が?
魔王と?
「ちょっと待ってください」
俺は必死に言った。声が震える。
「俺は…俺はただのサラリーマンで…戦うなんて…無理です」
「案ずるな」
国王が穏やかに言う。
その声には、不思議な安心感がある。
「そなたには、勇者としての力が宿っているはずだ」
「力…?」
「歴代の勇者たちは皆、異世界より召喚された者たちだった」
国王が説明する。
「そして、彼らは皆、この世界の力に高い適合率を示した」
「適合率…?」
「詳しくは後ほど説明しよう」
リオルが補足する。
「まずは、そなたが真に勇者としての資質を持つか、測定させてもらう」
周囲から、声が聞こえる。
「今度はどのくらいの数値か」
「魔王を倒してくれるのか」
「我が国の救世主だ」
期待の声。
プレッシャー。
視線が、全て俺に集まる。
(期待…されてる)
でも——今度は違う気がする。
ふと、気づく。
(俺は、元の世界に戻りたいと思っていない)
あのブラック企業。終わらない残業。削られていく心と体。上司の罵声。
全てから、解放された。
もう、あそこには戻りたくない。
むしろ——
(勇者、か)
心の中で、その言葉を反芻する。
勇者。
救世主。
英雄。
(勇者として召喚された)
(特別な力があるかもしれない)
(この世界でなら、やり直せるかもしれない)
想像が膨らむ。
胸が、少し躍る。
(社畜としてではなく、勇者として)
(使い捨てられる存在ではなく、期待される存在として)
(無能と罵られるのではなく、救世主と呼ばれる存在として)
希望が、胸の中に灯る。
小さな、でも確かな希望が。
温かい。
(この世界で…生きていけるかもしれない)
魔王を倒し、英雄になる。人々に感謝され、称賛される。もう、誰にも馬鹿にされない。理不尽な扱いを受けることもない。
新しい人生が、始まる。
心が、わずかに躍る。
(やってやれる…かもしれない)
「勇者よ」
国王が立ち上がる。
「我が国の命運を、そなたに託す」
周囲から、拍手が聞こえる。
その音が、大広間に響く。
まるで、波のように広がる。
俺は、その中心に立っている。
期待の視線。
拍手の音。
全てが、俺に向けられている。
プレッシャー。
だが少し気分がいい。
今度は違うかもしれない。今度は、勇者だ。特別な力があるかもしれない。この世界で、やり直せるかもしれない。
新しい人生が、ここから始まるかもしれない。
「分かりました」
俺は、覚悟を決めた。
拳を握る。
「俺が…魔王を倒します」
自分でも驚くほど、はっきりと言えた。
声が、響く。
「おお…!」
周囲から、歓声が上がる。
「勇者が承諾した!」
「我が国は救われる!」
拍手と歓声。
その中で、国王が満足げに頷いているように見える。リオルも、口元に微笑みを浮かべているように見える。
でも、その笑顔は、どこか冷たい気がする。
(よし…やってやる)
社畜人生からの脱出。
異世界での再出発。
これが、俺の新しい人生の始まりだ。
希望が、胸の中に灯る。
小さな、でも確かな希望が。
温かく、明るい。
「さあ、勇者よ」
国王が手を挙げる。
「まずは、そなたの力を測定しよう」
「測定…?」
「うむ。魔導長を呼べ」
国王の言葉に、誰かが進み出る。
白い長いローブを着た、痩せた老人。杖をついている。
「勇者殿、こちらへ」
老人に導かれ、魔法陣の中心へ進む。
一歩、また一歩。
視線が、全て俺に注がれている。
期待と、好奇心と、そして——何か、不穏なものも混ざっている気がする。
(でも、気のせいだろう)
(大丈夫…きっと大丈夫だ)
自分に言い聞かせる。
異世界に召喚された勇者なんだから、きっと特別な力があるはずだ。
そう信じて——
俺は、運命の測定に臨んだ。
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