7.新しい名づけ
朝だ。
いつもの通りに早起きをしたビェナは、眠たい目を擦りながら体を起こした。
それからいつもの通りに髪をとかす。革の水筒の水を使って顔を洗い、用意していたタオルで拭いた。ぽろりと花が零れ落ちた。
(……やっぱり夢じゃないかあ)
鮮やかな赤紫の花は、ビェナの手のひらにころころと広がる。柔らかなとろみのある香り。間違いない、食用できる。
困窮した昔、ロミールから食用できる植物について教わったので判別には自信がある。
(こんな魔法をかけられるなんてって思ったけど、結果としてよかったのかも)
魔法で現れる花には、虫も湧いていない。清潔で美しい。
腹の足しになるのなら、ビェナとしては悪くない魔法ではと思えてきた。
いくつかさっと水筒の水で洗う。そのまま口に入れて、次にビェナは朝食の支度にとりかかった。
ネリダとロミールが起きてきたのはそれからしばらくしてからだった。
いつも二人は起きてくる時間がまちまちなのだ。眠らないときもあれば、半日ぐっすりと休むこともある。昨日のように変身したりすると疲れてそうなるらしい。
「おはよう、二人とも」
「おはよう、ビェナ」
「ああよく寝た。おはよう」
揃って挨拶をすると、ロミールはあたりを見回した。
まだ寝袋にくるまっているエミディオンを見て、呆れた声を上げた。
「寝坊助がいるようだね」
「長い眠りから覚めたばかりだから、きっと疲れているんだよ。寝かせてあげよう」
「さて、どうだろうね」
ロミールは首をかしげている。
一方で、ネリダはビェナの用意している料理を見て言った。
「これだけじゃ足りないンじゃない? ロミール、獣の一匹か魚数匹を捕まえてこようじゃない」
「わかった。ビェナ、行ってくるけど二人にして大丈夫かい」
視線は眠るエミディオンに向かう。
すうすうと規則的な寝息がする。ビェナは、心配そうなロミールにうなずいて返した。
「うん、多分……大丈夫」
少し詰まってしまったが、昨夜の様子を思い返して不安を追い払う。最初にビェナにキスを贈ろうとしたのも、それが礼だと本当に思っていたからだ。それが違うと理解すれば、無理にする人ではなさそうだった。
(あ、私の絵本。読んでくれたのかな)
丸まって眠るエミディオンの傍に、ビェナが差し出した絵本とシャツがある。絵本は開いたままで、読みかけて眠り落ちたようにビェナには見えた。
料理の絵本は、鳥の香草焼きのページだった。それを確認すると、ビェナは準備運動をしているネリダたちに頼んだ。
「できれば、鳥をお願いしてもいいかな」
「鳥ぃ? ロミール、どう?」
「やるだけやってみよう」
そう言うと、ロミールとネリダは揃って人形の体から抜け出すと草地を這って消えていった。
待つことしばらく。
エミディオンが起きる気配はまったくない。すやすやと心地よさそうに眠っている。こうしていると、絶世の美貌は健在だ。ビェナが用意した寝袋も高級シーツにくるまっているように見える。
(ひええ、やっぱりすごく綺麗……きらきらしてる)
朝日もエミディオンを祝福しているみたいに降り注いでいる。
迂闊に近寄りがたい。昨夜のほうがよっぽど親しみやすかったかもしれない。じっと見惚れそうになって我にかえる。
魔法で眠っていた時とは違って、体は自由に動くらしい。掛けシーツがズレてはだけていた。
ビェナはそうっと近づいて崩れたシーツに触れた。そのまま慎重に掛け直していると、もぞもぞとエミディオンが身じろぎした。緩やかに瞼が開閉して、明るい橙の瞳が現れる。
咄嗟にビェナは身構えた。
しかし、エミディオンは数度瞬きを繰り返してまた眠った。また健やかな寝息が響き始める。
(ね、眠っちゃった……)
静かに様子を伺うが、エミディオンはちっとも起きる気配もない。すっかり夢の世界にいるようだ。
「猫のようじゃない」
「ひぃっ」
急に耳元で声をかけられた。
驚いて体を跳ねさせると、人形の体にネリダが戻ってやってきていた。ということはと辺りを探ると、ロミールが鳥を一羽引きずっているのが見えた。
「お、おかえり」
「まーだ眠ってンのかい。ほら、起きるンだよ! ビェナ、揺すっておやり」
「えっ、でも、お疲れかもしれないし」
「早くに出ないと、宿も取れないかもしれないじゃないの。ほら、起きた起きた」
言いながら、ネリダはエミディオンの体に登って襟元を掴み揺すった。途端、苦しそうな声が上がる。
「う、うう……なんだ」
「やっと起きた。丸まっちゃって、本当に猫のようなンだから」
さらに丸まったエミディオンに、容赦なくネリダが追い立てる。慌ててビェナがネリダの体を抱き上げるが、すっかりエミディオンの眠気は去っていったようだ。
「ここは」
「おはよう寝坊助。アンタ、名前も猫のように呼ンじゃおうかしらね。ねえ、ビェナ」
「何を言ってるの、ネリダ」
恐れ多いことを言う。ビェナが怖気づきながら腕の中のネリダを咎める。しかしネリダはお構いなしに名前の候補を上げ始めた。
「エミディオンなンでしょ、名前。なら、ミーオン、ミャオ、ミオね。今の時代、そんな古臭い名前は使えないからちょうどいい」
エミディオンは戸惑ったまま半ば呆然としている。ネリダが腕を動かすたびに、無感動に目で追う。ぽかんと空いた唇から「え」と困惑の声が上がった。
「そうねえ、ミオでいいわ。短くて呼びやすいし、いいンじゃない。ねえ、ロミール」
(そんな、ネリダが聞いたらロミールは)
ビェナがロミールを振り返る。鳥を解体していたロミールは、当然のように肯定した。
「それもその通りだね。ミオ、いい名前じゃないか」
「だろう?」
二人の中で、エミディオンはミオという名前に決まってしまった。さすがのエミディオンもこれは断るのでは。恐る恐る伺ったが、エミディオンは困惑したまま人形二人を見つめていた。
しかし、待っても結局否定の言葉は出てこなかった。
「……そうだというなら、従おう」
「口調も直すんだよ、ミオ」
「そうそう。ロミールを参考にするンだよ、ミオ」
「わかった」
姿勢を直したエミディオンは、ネリダを抱えたまま固まっているビェナへと顔を向ける。
「君も、そう呼んでもらってかまわない」
「ミ、ミオ、様」
「様なんてついたら怪しまれるだろ」
抵抗でつけた敬称をネリダが突っ込む。エミディオンも「ミオでいい」ともう一度言った。
「ミオ……さん」
ビェナの精一杯の譲歩だ。どうにかこうにか呼ぶと、ネリダは抱えるビェナの腕を叩いた。
「まったく。ミオ、あたしたちのこともちゃんと名前で呼ぶンだよ」
「わかった」
こくりとエミディオンがうなずく。
そうしたところで、ロミールの「できたよ」という声がかかった。
いつの間にやら、綺麗に焼けた鳥が切り分けられている。
ビェナが用意していたスープとパンを合わせると、朝からちょっと豪勢な食事だ。一行は円座になって朝の食事を始めた。
全員が揃って腹ごなしをするなかで、エミディオンはじっとロミールの様子を眺めていた。どうやら観察しているらしい。
ロミールは人形の手で器用にパンを大きくちぎって口元にねじ込んでいる。エミディオンが恐る恐る同じように手に持つと、大きくちぎってそのまま口に入れた。
当然、むせた。
「げほっ! えほ!」
「これ、水、水っ」
カップに入れていた水をビェナは咄嗟に差し出す。
咳き込みながら、エミディオンはカップを取って飲み干した。
「すまない」
「何してンだい。ちゃンとよく噛まないと」
ネリダの呆れた声に、エミディオンはパンを手に「噛んでいいのか」と真面目に返した。
「食べ方は僕らの真似をしては駄目だよ。君は人間なんだから、ビェナのように食べるといい」
「そうか。わかった」
(食べづらい……!)
じ、と視線が刺さる。本人はいたって真面目なだけに注意しづらい。極力綺麗な仕草になるよう気をつけながら、ビェナは視線を無視した。
緊張するとあっという間だ。
「飽食の都へは、ここの森を抜けて村を経由して向かおう。ミオは知っているかな」
あらかた食べ終わったところで、ロミールがエミディオンに話を振った。
エミディオンは、曖昧な様子でゆっくりと頷いた。
「国の外に、美食を追い求めた貴族が居たのは聞いたことがある。領地が発展したのか」
「おおむねの歴史と合っているよ。尽きず、飽きるほどの食の数々。遠くの国にも噂が轟く有名な観光地だ」
「素晴らしい為政者がいるのだね」
「それはそこの民の暮らしぶりを見たらわかるかもね。さあて、ネリダとビェナは片づけを。ミオは力仕事を手伝ってあげるんだ。僕は道を確認してこよう」
ぴょんっと立ち上がると、ロミールはまた人形から抜け出した。半透明な粘液で出来た体をくねらせて器用に手らしき形を作って振る。
「いってらっしゃい、ロミール」
「気をつけて行っといで」
ビェナとネリダの声に、もう一度ロミールの手が振られる。そして今度こそ道を辿って行ってしまった。
「じゃ、手っ取り早くやろうじゃない。ビェナ、ミオ、しっかり働くンだよ」
「うん、がんばる」
ネリダが腰に手を当ててふんぞり返る。いつもの調子に、ビェナは習慣づけられた返事をした。エミディオンも、その様子を見て一つうなずくと同じように真似をした。
「がんばろう」
思わずビェナはエミディオンを見てしまった。エミディオンと目が合う。
食事中は邪魔になるからと、ローブを外していたのだ。すぐに魔法が発動して、エミディオンの顔はもやに覆われてしまった。
(あっ、しまった……あれ)
ビェナは寂しい夜空と称されたそのもやが、わずかに瞬いた気がした。浮かぶ遠い星の光が、わずかに近づいたような。
しかしそれも自分の顔の変化を察したエミディオンによって隠されてしまった。深くローブを被りなおし、うつむかれてしまう。
(もしかして、張り切ろうとしているのかな。嬉しかった、とか?)
隠れた顔の向こうを思って、ビェナは言葉を探した。
「あの、ありがとうございます。ミオさん、がんばりましょう」
探して、ありきたりの言葉しか出てこなかった。かけないほうが良かったかもしれない。そう後悔しそうになったところで、エミディオンの頭が縦に小さく動いた。
良かった。
ほっとしたところで、ネリダがせかせかとビェナのスカートの裾を引っ張った。
「ちゃっちゃと動く!」
「はあい」
引っ張られるがまま、ビェナは動き出した。ついてくるエミディオンの気配を感じる。あえて振り向かず、いつも通りを心がけながら一つ呼吸をした。
増えた荷物を整理して、ほんの少しだけビェナの心の荷物も降りたような気がした。
補足。
完璧に食べやすいようにされていた食事以外、ミオは知りませんでした。
またミオの時代とは、パンの形も風味も違っていたそうな。




