23.似合いの泣き虫
霧が立ちこめる木々の合間を抜け、慎重に奥へと歩く。
やがて霧は周囲一帯に立ちこめて視界を白く塗りつぶしていく。地図はもはや役に立たず、足元も見えない。
互いの握る手の温度だけが、心細さを和らげてくれた。
やがて、その先にうっすらと建物が現れた。
不自然に、揺らぐ霧がそこだけを避けているようだった。
(これは、やっぱり魔法?)
ビェナは注意深く周囲を見回したが、辺りは霧ばかり。はっきり見えるのは自分と手をしっかり繋ぐミオで、遠くに古い建物があるだけだった。
ミオも警戒しているのだろう。ビェナを一瞥した。先に進む意思を示すためにうなずけば、ミオは再び前を向いて足を速めた。
(あれがきっとそう)
果ての森にある賢者の住処。
もうないという話だったが、目の前にある。幻覚ではないはずだ。ビェナたちが進めば、徐々にその輪郭が空間に描き足されていくみたいにくっきりしていく。
地面を踏みしめる。霧のせいで見た目ではわからないが、確かに感覚はある。不思議な景色だった。
早歩きから、小走りへ。そして聞こえた声に、ビェナはミオと共に駆け出した。
声がする。昨日聞いたばかりなのに、もう懐かしい。
「ロミール、ネリダ……!」
名前を呼ぶ。
呼んで、霧を抜け潜り、次の瞬間には建物の前にビェナは立っていた。傍にはミオがいて、くん、と手を引かれた。
「あっちだ」
遠目に見た古い建物なのは間違いない。蔦や苔に浸食された丸太小屋は、生活感がない。すでに自然に呑まれたような打ち棄てられた静寂さがあった。
しかし、その光景とは裏腹に物音がする。
ミオが示したほうからだ。ビェナは急いで向かった。
「すまない……すまない。ごめん。ごめん、ごめんよ……」
男が、黒い魔法使いが地面に頭をこすりつけて丸まっていた。
懺悔の声をひたすら上げている。
そしてその前には、大きく広がり威嚇するような半透明の物体がいた。それぞれどうにか五体を現すような形になっている。
どっちがどっちかなんて、ビェナにはすぐにわかった。
苛立たし気に腕を組んで仁王立ちしているのはロミール。怒りをあらわにして足を踏み鳴らしているのは、きっとネリダだ。
「謝って済むなら、こんなに怒っていない」
「そう! そうよ!」
「なぜ逃げた。なぜ、顔を見せなかった」
静かな声は、ひどく恐ろしく響く。ひたひたとした怒りが空気を震わせているのではないか。
ビェナはこれほど怒るロミールを見るのは初めてだった。合いの手のように囃すネリダの声があってもなお凄まじい。
会うために飛びこんできたが、その怒りにビェナは一瞬躊躇してしまった。もちろんミオもだろう。
ミオはそっと手をビェナの肩に移動させて、このまま待とうというように制してきた。
「ごめん。本当に、ごめん。ごめんなさい。合わせる顔がなかったんだ」
「君が小心者で臆病なのは知っている。僕らが言いたいのはそうじゃない。マトヴィック」
「失望、されたくなかった……最後になるなら、会いたかった」
とうとう魔法使い、マトヴィックは声を張り上げて泣き出した。地面に小さな水たまりができるのではというくらいの勢いだった。
しかしよく見れば、マトヴィックのこぼした涙は土のシミにもならずに途中で消えていた。魔法のような涙を流して、マトヴィックは言葉を続けた。
「病の村を僕が焼いてしまってから、どれほど時間が経ったろう……! 僕はただ、苦しみに冒されて消える君たちを、どうにかして助けたかった。心から!」
はあ、とロミールの大きなため息が相槌のように響く。マトヴィックはそれに弁明するかのように矢継ぎ早に言った。
「魔法なら、できると思ったんだ。僕なら。それだけなんだ」
「そんなこと聞いているんじゃない。何度言えばいい」
「あ、ああ……ごめんよロミール。ネリダ。僕は間に合わないまま死んでしまった……心残りばかりでここに残っているんだ」
涙ながらにマトヴィックは言う。
死んだ。
ビェナはまじまじとその姿を見た。一瞬、マトヴィックの嘆きに合わせて姿がブレる。
しかしそんなことは知っているとばかりに、ロミールの足先部分が地面を数度打った。
「あれから治そうとしたんだ。でも駄目だった! どうやっても、うまくいかなかった。なのに、こんなざまで君たちの前に現れたくなかった」
「それで? 今更になって思い立って現れて、あの子を利用したって? 途中から行先を仕組んだわね?」
ネリダが苛立たし気に言った。
告白の吐露に、ビェナは息を呑んだ。わかっていたのか。ビェナと人形たちの行く末を。
脳裏にこれまでの旅路で贈られた物が思い浮かんだ。そしてそのやり取りも。
嘆いて落ちこんでいたこと。ビェナに与えたときに子どものように拍手したこと。逃げるように消えては現れて。
ずっと、ビェナの先にいるネリダとロミールを見ていた。
「そこまでして、どうして」
思わずビェナは呟いていた。
視線の向こうに、細長い体を必死で小さくして謝るマトヴィックの姿がある。
肩に触れるミオの指先が慰めだった。彼にはそうしてくれる人はいない。
哀れな人だと思った。
マトヴィックが呻いた。肯定なのか否定なのかわからない意味をなさない言葉を吐いて、捲し立てた。
「ずっと、ずっと君たちを治したくて、頑張っていたんだ。本当だ。それで、もう、僕も持たないから。ああ、ああ、遅くなってごめん……ごめん」
「どうりでね」
またもや謝り始めたマトヴィックに、ロミールは溜息を吐いた。それからビェナたちのほうに体をひねって向くと、ああ、と嘆息した。
「ぐずぐずしすぎたね。やっぱり来ちゃったか」
「ほら、あたしの言った通り」
得意げにネリダが口を挟んだ。
「ビェナは昔からそういうとこあるンだって。まあ、これを見られるのは、ちょっとしまりが悪いけど」
そう言って、ネリダはロミールの肩を叩く。
それからビェナたちに向かって手招こうとして、止めた。代わりに腰のあたりらしき部分で腕をとめて言った。
「おはよう、二人とも」
変わらなかった。
それが嬉しいのか悲しいのかわからない。ビェナは潤みそうになる目を瞬かせて返事をした。
「おはよう、ネリダ。ロミールも、おはよう」
「おはよう」
ビェナに追うようにミオも言う。それにマトヴィックをねめつけていた様子のロミールも、声を和らげた。
「うん、おはよう。よく来たね」
「見送りにきたの」
「……そうか。ミオも、わざわざありがとう」
少し溜めて、ロミールは軽く頭を下げた。それに倣ってか、ミオが礼儀正しくしっかりと敬意のこもった礼をする。
ネリダの傍に連なって立ったロミールは、感慨深そうにこちらを見ているようだった。
「マトヴィック」
「……ああ、うん。ごめん、わかっているよ。ロミール」
魔法使いの名前を呼んで、ロミールはその場に屈んだ。マトヴィックを覗きこんで、静かに告げた。
「君が言わないから、教えよう。あの時、そんなものよりも。僕らは寄り添ってもらえるだけで、それで良かったんだ」
「罪悪感から逃げだしたらざまないわよ。お馬鹿さん」
ネリダも屈んで、マトヴィックに向き合った。
声が震えている。
声を掛けようと迷って、ビェナはただ見守った。ネリダがこちらを見て、微笑んだ気がしたからだ。
「ネリダ、泣いてる?」
「ロミール、アンタだって誤魔化すときの声じゃない」
小さく笑いあって、二人はマトヴィックに言った。
「もういいよ。二人で君にそう言おうと決めていたんだ」
「許せないこともあるけどさ、もういいわよ。だって、うちの子と出会えたもの」
「世界一のね」
「そう! 自慢のね」
マトヴィックは顔を上げて、地面に手をついたまま二人を見て、それからビェナのほうを見た。視線がかちあえば、マトヴィックはくしゃくしゃに表情をゆがめて涙をこぼした。
そうして、何も言わずゆっくりと消え去った。
マトヴィックが居た痕跡は、何一つない。さあさあと、一度だけ風が巻いてほどけていった。
「本当にいなくなるときばかり立派だね」
だからだろうか。ロミールの落ち着いた声がひどくよく耳を通った。ビェナはハッとしてロミールたちを見つめた。
ロミールもネリダも、こちらを向いていた。歩いていけばすぐの距離なのに、ひどく遠くにいるように感じる。
「さあ、幕切れだ。これで……うん、魔法はもたなくなる。馬鹿な友人の最期くらい一緒にしようか」
「心底気に食わないけど、ロミールとならいいわよ」
軽い調子で出かけるみたいに言う。
それが、そんな些細な会話はもう聞けないというのに。
ビェナは気づくと、マトヴィックの嘆きが移ったみたいに大粒の涙が頬を濡らしていた。
優しく涙を払うミオの指先に、雫が残っている。抑えなければと思うのに、決壊したみたいに止まらなかった。
自分の腕で乱暴に拭って、ミオを見る。美しい瞳から、宝石のように涙がこぼれていた。それがまた、悲しくて、どうしようもなかった。
「なに二人して泣いてンの。まったく」
「僕らはもう、あやしてあげられないんだから。しゃんとして」
「そうそう。泣き虫同士、いいンじゃない。うまくやっていきなさいよ」
「ほら、見送りにきたんだろう。二人とも」
ミオが繕いもしないそのままの表情で、「ありがとう」と礼を口にした。それを二人が頷いて受け入れる。
「さあ、ビェナ」
ロミールに促されて、ビェナはしゃくりながらうなずいた。
「いってらっしゃい。お父さん……お母さんっ」
二人はぴたりと動きを止めると、それからおかしそうに笑って軽く手を振った。
音もなく静かに、地面にしみこむように姿が消えていく。
それを最後まで。完全に見えなくなるまで見送って、ビェナは顔を抑えて声を上げて泣いた。
傍に寄り添う体温がなければ、ぽっきりと折れてしまうんじゃないか。それくらいに。
声が出なくなるまで泣いて、しゃくりあげて、抱きしめてくれる体に身を寄せて。
ビェナは心の嵐が収まるまで、ミオと共にその場に居座り時間を過ごした。
そしてゆっくりと尾を引く悲しみをそのまま抱きながら、二人で来た道を戻った。
不思議なことに、来るときはあれほど長く感じた距離もあっという間だった。ぼうっとして重たい足取りで歩き続ければ、いつの間にか慈善の教会の門付近に戻っていた。
「戻ってきちゃった」
ぽつりとこぼれた言葉に、ビェナは目元をまたぬぐった。きっとひどい顔のままだろう。ミオも少し目元が赤く擦れた跡がある。
「……ビェナが望むなら、また旅に出てもいい」
ミオが言う。
「住んでいた故郷の村に戻るのも」
「ううん。いいの」
言葉を遮って、ビェナは断った。
「ミオさんがいいのなら、私、ここでやろうと思うことがあるの」
「別にかまわない。ここでの暮らしは好きだ」
少しの間が開く。ミオは何かを思い出したのだろう。軽く頭を振ってから言い直した。
「その、あの部屋はともかく。ただ、貴方が居るならもっといい。好きになる」
「はい。私も」
うまく笑えただろうか。この美しい人に、そうまで言われる自分であれるように、ビェナは笑ってみせた。
「じゃあ、一緒に戻りましょう」
「うん」
ゆっくりと握りなおした手が温かかった。どちらともなく指を絡める。
しっかり顔を上げて前を向き、ビェナは自分から足を一歩前に出した。




