そして誰もいなくならなかった
嵐の夜だった。
稲光が古びた館の屋根を照らし、そのたびに壁の絵画や彫像が不気味に浮かび上がった。外界との道は、既に崩れた橋で断たれている。――つまり、今ここにいる七人以外、この館には誰もいない。
「全員そろってるね」
淡々とした声でそう言ったのは、刑事の城戸だった。彼は卓上のランプをつけ、名簿を広げる。
ここは、十年前の殺人事件が起きた“霧ヶ峰館”。当時の関係者たちが「真相を確かめるため」に再び集められた――はずだった。
「けどおかしいよな」
軽口を叩くのは、当時の被害者の友人だというフリーライター、堀内。
「招待状の主が“誰”なのか、誰も知らないなんて」
彼の冗談に、場の空気がさらに重くなる。
年老いた元執事の吉村が、震える手でティーポットを持ち上げた。
「……しかし、確かにこの館を知る者でなければ、ここまで来ることはできません。何者かが意図的に……」
その言葉を遮るように、雷鳴が轟く。
「まぁまぁ」
俳優の如月がグラスを掲げた。
「せっかくだ。十年前の亡霊が出る前に、乾杯でもしようじゃないか」
軽い笑いが起こったが、誰の笑いも本物ではなかった。
――その時、時計が鳴った。
午前零時を告げる鈍い鐘の音。
続けざまに、照明が一瞬だけ明滅し、全てのランプが消えた。
「停電か!?」
誰かの叫びと同時に、暗闇の中でガシャンと陶器の割れる音。
短い悲鳴。
そして、沈黙。
やがて非常灯が点いた時、床に倒れていたのは堀内だった。頭を押さえながら起き上がる。
「……おいおい、誰か押したか?」
幸いにも怪我はない。だが、全員の顔に緊張が走った。
――十年前の事件は、“ひとりずつ消えていく”という恐怖で知られていた。
そして今夜、また誰かが仕組んだように、あの夜が再現されようとしている。
だが、このとき誰も知らなかった。
この中の誰ひとり――“消える”ことなど、最初から起きないということを。
停電は十五分ほどで復旧した。
ランプの光が戻ると同時に、全員がほっとしたように息を吐いた――が、その安堵は一瞬だった。
テーブルの上に置かれていた一枚の紙切れに、全員の視線が吸い寄せられたからだ。
『十年前の罪人は、今宵ふたたび裁かれる。』
「誰のいたずらだよ……」
堀内が呟く。彼の額には、先ほどの転倒でついた血が滲んでいた。
城戸刑事は黙って紙を取り上げると、ペン先で封筒の縁をなぞった。
「新しい紙だな。印刷インクのにおいもまだ残ってる。誰かが――今日ここで用意した」
誰かが、息を呑む音。
雷鳴が窓を揺らし、古いカーテンが膨らんだ。
まるでこの館自体が、何かを訴えようとしているようだった。
「……皆さん、落ち着いてください」
静かに口を開いたのは、招待客の中で唯一の女性、心理学者の小鳥遊だ。
「十年前の事件では、亡くなったのは“ひとり”でした。けれど、世間は噂を広げた。“呪いの館”だとか、“犯人はまだ生きている”だとか……。今夜の招待も、その風評の延長線上にあるのかもしれません」
「そう言うけどな、小鳥遊先生」
如月が苦笑する。
「十年前、俺たちはそれぞれ何かを隠してた。あの夜の真実を語り合おうって話だったのに、結局誰も何も言わなかった。だから今でも、俺たちは“被疑者”のままだ」
重たい沈黙。
城戸は煙草に火をつけ、ゆっくりと煙を吐いた。
「俺は捜査を担当していたが、当時の捜査資料は途中で消えた。誰かが持ち出した形跡がある」
その言葉に、全員の顔色が変わる。
「つまり……」
堀内が唾を飲み込む。
「その“誰か”が、今夜ここにいるってことか?」
その時、館の奥から小さな物音がした。
階段を軋ませるような、かすかな足音。
全員が一斉に振り向く。――そこには誰もいない。
しかし次の瞬間、廊下の奥で一枚のドアがゆっくりと開いた。
古い客間。
そこに吊るされた額縁の裏から、一枚の古びた写真が落ちる。
拾い上げた小鳥遊が息を呑んだ。
「これ……十年前の集合写真……!」
写真には、今ここにいる全員と――もう一人、見覚えのない人物が写っていた。
「誰だ、こいつ……?」
誰も答えられない。
ただ、その見知らぬ男の顔が、どこか“今の誰か”に似ているように見えた。
ざわめきが広がる中、城戸は冷静に言った。
「ひとつずつ確認しよう。今夜の目的は、“犯人探し”じゃない。“生き残ること”だ」
堀内が鼻で笑った。
「おいおい、まるで誰か死ぬみたいな言い方だな」
「そう言ったつもりはないさ。ただ……“もし誰も死ななかったら”――それはそれで、面白いと思わないか?」
誰も笑わなかった。
ただ、館の時計が再び鳴った。午前一時。
まるで、次の幕が上がる合図のように。
午前一時を過ぎ、嵐はいっそう激しくなった。
外は土砂降り、電話も圏外、車も道もすべて孤立。まさに“閉ざされた館”という状況が完成していた。
「なあ、本当に全員……人間、だよな?」
堀内の冗談に誰も反応しなかった。
そのとき、館の奥から鈍い金属音が響いた。
皆が顔を見合わせる。
「厨房だ」
城戸刑事が懐中電灯を手に取り、先頭に立つ。
他の五人も、ためらいながら続いた。
厨房のドアを開けた瞬間、ひやりとした空気が流れ込んだ。
ガスの匂い。
そして、床に転がる包丁。
「誰かいた形跡がある……!」
如月が声を上げる。
城戸が床を調べると、泥の足跡があった。しかも、六人分ではない。七つ目の足跡――。
「……やはり、誰かいる」
その言葉に空気が一気に凍りついた。
「ま、待ってくれよ!」
堀内が声を上げる。
「七つ目の足跡って……俺たちは六人しか――」
「いいえ、七人です」
静かに訂正したのは、小鳥遊だった。
「あなた、数え間違えてます。ほら――私たち、最初に“七人”と紹介されたじゃないですか」
確かに。
けれど、誰ももうひとりの“顔”を思い出せなかった。
――まるで最初から存在していなかったように。
「待て……誰がいた?」
城戸が名簿をめくる。そこには確かに七名の名前が記されている。だが、最後のひとつ――“空欄”。
書かれていたはずの名前が、黒いインクで塗りつぶされていた。
雷鳴が轟く。
その瞬間、廊下の奥から影が走り抜けた。
「おい、誰だ!」
城戸が駆け出す。ほかの者たちも慌てて後を追う。
だが、そこにいたのは――鏡だった。
大きな姿見の中に、七つの人影。
そして、ひとつだけ、ゆっくりと笑う顔。
「……鏡の中?」
堀内が言葉を失う。
鏡の中の“七人目”は、外の自分たちとまったく同じ姿をしていた。
いや、同じ“誰か”に見えるように、歪んでいた。
「……やっぱり出たか」
城戸の声が低く響く。
「十年前の事件、被害者は鏡の間で見つかった。死ぬ前に、同じ顔を見たと証言してな」
如月が苦笑した。
「まるで芝居だな……犯人も被害者も、同じ役者が演じてる」
小鳥遊が、ふと鏡に近づいた。
「でも、不思議ですね。もしこれが幻覚なら、誰が“見せている”んでしょう」
返事の代わりに、館全体が軋んだ。
――ミシ、ミシ、と。
まるで何か巨大なものが、壁の中で呼吸しているような音。
堀内が震える声で言った。
「なあ、もう帰ろう。十年前のことなんか、どうでもいい。誰も死んでないなら、それで――」
「いや、死んでるさ」
城戸がゆっくりと振り返る。
「十年前に、一度“みんな死んでる”。だから、今ここにいるのは――」
雷鳴が館を貫いた。
鏡が割れる。
そして、暗転。
眩い閃光のあと、館は静寂に包まれていた。
雷の音も、雨の音も、すべて遠くへ消えたかのように。
――ただ、割れた鏡の前で、六人が立ち尽くしていた。
「……生きてる?」
堀内が息を詰めて周囲を見回す。
誰も倒れていない。血も、傷も、何もない。
ただ、鏡の破片だけが床一面に散らばっていた。
「いまの、なんだったんだ……?」
如月が額を押さえる。
すると、小鳥遊が静かに鏡の破片を拾い上げた。
破片の中には、それぞれの顔が映っている――だが、どれも“少し違う”。
年を取っていたり、笑っていたり、泣いていたり。
「……これ、“あのとき”の私たち」
彼女の声が震えた。
「十年前、この館で、私たちはもう――」
「そうだ」
城戸が低く呟いた。
「十年前の事件。記録が消えたのは、俺たち自身が“消した”からだ。あの夜、俺たちは全員、事故で死んだ」
堀内が笑い飛ばそうとしたが、声が出なかった。
彼の胸元には、いつの間にか濡れた血の跡が滲んでいた。
「じゃあ……俺たちは、幽霊ってことか?」
「いや、違う」城戸が首を振る。
「死んだことを、誰も認めなかった。だから、こうして“集まった”んだよ」
雷鳴の代わりに、館の時計が鳴った。
午前二時。
鐘の音が響くたびに、誰かの輪郭が少しずつ透けていく。
如月が笑った。
「なるほどな……“そして誰もいなくならなかった”ってのは、そういう意味か」
「え?」堀内が目を見開く。
如月は、消えかけた自分の手を見つめながら言った。
「俺たちは“死ななかった”と思い込んでた。だから、ここにいる。でも本当は――とっくにいなくなってる」
小鳥遊が頷いた。
「誰も殺されなかった夜。誰も生き残っていなかった夜。
けれど、それでも誰も“いなくならなかった”。
心が、この場所に残ったから」
館の灯りが、ひとつ、またひとつと消えていく。
皆の姿も、それに合わせて淡くなっていった。
最後まで残ったのは、城戸刑事だった。
彼は破片の一つを拾い上げ、微笑んだ。
「霧ヶ峰館事件・最終報告書。――全員、無事生還」
その言葉を残して、彼の姿も霧のように溶けた。
翌朝、嵐が去った館には、何の異常も見つからなかった。
ただ一つ、机の上に置かれた一枚の紙。
『そして誰もいなくならなかった』
その文字は、誰の筆跡にも似ていなかった。
彼らは事件の真相を探すために集まったわけではなく、“もう一度だけ自分たちの存在を確かめるため”に集まったのかもしれません。




