第五十四話:水底の聖域
【佐伯美月合同葬送記録】の桐箱から滲み出した、一筋の黒く濁った水。
それは遠山快の傲慢さが招いた取り返しのつかない結末を象徴する、最初の一滴だった。
彼の顔から血の気が引き、その瞳に純粋で絶対的な絶望の色が浮かぶ。
彼が呼び覚ましてしまったのは制御可能な力などではなかった。
それはこの聖域そのものを喰らい尽くす、混沌の濁流だったのだ。
じわり。
その最初の一滴に呼応するかのように、別の桐箱からも、また別の桐箱からも黒い水が汗のように滲み出し始めた。
【橘宗一器物溺死記録】からは錆と泥の混じった水が。
【竹内光忠水難死顕現記録】からは川底の腐臭を放つ水が。
何百年という歳月をかけて封じ込められてきたそれぞれの記録に宿る「水」の記憶が、今、快の暴走した言霊によってその封印を破り、現実世界へと溢れ出し始めたのだ。
だが、異変はそれだけでは終わらない。
書庫のあの分厚い石の壁。その冷たい表面が、まるで人間の皮膚が汗をかくようにじっとりと濡れ始めたのだ。
初めは微かな結露のようだった。
だが、その水滴は瞬く間にその数を増やし互いに繋がり、やがて黒く濁った泥水となって壁面を滝のように流れ落ちていく。
床に描かれた血の曼荼羅がその黒い水に濡れて滲み、おぞましい模様を広げていく。
壁に書き連ねられた鬼神を呼ぶ呪文が、まるで涙を流すかのように血の墨を溶かしながら流れ落ちていく。
快がこの場に構築したはずの呪詛の祭壇が、彼自身が呼び覚ました呪いによって内側から洗い流され、汚染されていく。
「……あ……ああ……」
快の喉からひきつったような声が漏れた。
彼は後ずさりしようとしたが足が動かない。床がおかしい。
硬いはずの石の床が、まるで湿った粘土のように彼の足元でぬちゃりと沈み込んでいる。
そして、その泥と化した床の表面が、ぼこり、と一つ不自然に盛り上がった。
次の瞬間、その泥の中からにゅるり、と何かが這い出してきた。
それは、手だった。
泥そのもので形作られた、五本指の人間の手。
その指先は不格好に歪み、泥の中からまるで何かを掴もうとするかのように虚空をかきむしっている。
一つではない。
彼の足元、曼荼羅を描いた床の至る所から次々と、無数の泥の手がまるで地獄の底から伸びてくる亡者の腕のように、這い出し始めたのだ。
外では台風が猛威の頂点を迎えていた。
だが、その凄まじい嵐の轟音さえも、もはやこの書庫の中の狂乱を覆い隠すことはできない。
バンッ!
鋭い破裂音が響いた。
棚に置かれていた桐箱の一つが内側からの圧力に耐えきれず、その蓋を弾き飛ばしたのだ。
それを皮切りに、連鎖が始まった。
バンッ!
バギンッ! メキメキッ!
棚に納められた千を超える桐箱が次々と、まるで熟れた果実が破裂するかのようにその身を砕けさせていく。
木っ端微塵になった桐の破片が、嵐のように書庫の中を舞う。
そして、その破裂した箱の中から解放された『秘匿葬送記録』の巻物たちが、まるで黒い蛇のように次々と床へと滑り落ちていった。
何百年もの間この書庫に蓄積されてきた、膨大な敗北の記録。
僧侶たちの血と涙と絶望の結晶。
それらが今、無残に、そして無慈悲に床に広がり続ける黒い泥水の中へと、吸い込まれるように沈んでいく。
書庫は、もはや書庫ではなかった。
床からは無数の泥の手が這い出し、壁からは黒い水が流れ落ち、天井からは凝縮された怨念が霧となって降り注ぐ。
それは、「雨濡」という呪いを、この世の全ての記録と怨念を喰らって濃縮し、そしてより強力な存在として再誕させるための、巨大な水槽。
あるいは、冒涜的な子宮へと変貌していたのだ。
その濁流の中心で、全ての始まりでありそして全ての終わりである遠山快は、ついに絶叫した。
「うわあああああああああああああああっ!」
それは傲慢さが砕け散った、ただの男の断末魔の叫びだった。
その叫びが、引き金となった。
それまで虚空をかきむしるだけだった床の無数の泥の手が、一斉にその音の発生源である快へと向きを変えた。
そして、這い寄る。
ぬちゃり、ぬちゃり、と不快な音を立てて。
最初に一人の泥の手が、彼の足首を掴んだ。
氷のように冷たく、そして墓場の土のように重い感触。
「ひっ……!」
彼は必死に足を振りほどこうとする。だが無駄だった。
次々と別の泥の手が彼のふくらはぎに、膝に、そして太ももに、まるで水草のように絡みついてくる。
それは彼が幻覚の中で幾度となく追体験した、あの四万十川の水底の光景そのものだった。
だが、これは幻覚ではない。紛れもない、現実だ。
泥の手は彼の腰に、腹に、そして両腕にまで絡みつき、その身動きを完全に封じていく。
彼の身体は抗いがたい力で、ゆっくりと、しかし確実に泥水の中へと引きずり込まれていく。
「……やめ……やめろ……!」
彼は最後の力を振り絞って抵抗した。
だが、その力は何百年という歳月をかけて蓄積された絶望の奔流の前では、あまりに無力だった。
泥水が彼の胸を満たし、首筋を撫で、そして顎に達する。
彼の視界の隅で、水面に浮かぶ砕け散った桐箱の木片が、まるで墓標のように漂っているのが見えた。
師の顔が、脳裏をよぎる。
『戦おうとすればするほど、ただ足を取られ引きずり込まれるだけじゃ』
師は、正しかった。
自分は、間違っていたのだ。
その、最後の後悔と共に。
彼の口は、黒く生臭い泥水で満たされた。
彼の最後の絶叫は、ごぼり、という一つの哀れな水泡となって水面に浮かび、そして虚しく弾けた。
聖域であるはずの高野山の最も奥深く。
墓守が守り続けた禁断の書庫は、今、その墓守自身を飲み込み、ただ静かに水音だけが響く呪われた水底へと、完全に変貌を遂げた。




