第五十三話:暴走する言霊
儀式は、始まったのだ。
そして、もう誰にも止めることはできない。
遠山快は、その最初の振動を肌で感じながら、その口元に狂気に満ちた勝利の笑みを浮かべていた。
彼の確信はすぐに現実のものとなり始めた。
彼が唱える冒涜的な言霊に呼応するように書庫全体が共鳴し始める。
床に描かれた血の曼荼羅が、まるで生きている心臓のようにどく、どくと赤黒い光を脈打たせる。
壁に書き連ねられた鬼神を呼ぶ呪文がぬらりとした光沢を帯び、そこから黒い霧のようなものが滲み出し始めた。
そして、あの桐箱たち。
彼の周囲を観客のように取り囲んでいた、千を超える「敗北の記録」。
カタカタカタ、という微かな振動は、やがてガタガタガタ、という激しい揺れへと変わっていった。
棚が軋み、桐の箱同士がぶつかり合う乾いた音が嵐の轟音と彼の読経の声に混じり合い、恐るべき不協和音となって書庫を満たす。
「――アビラウンケン・ソワカ!」
快は、その光景に恍惚としながらさらに声を張り上げた。
これだ。これこそが自分が求めていた力。
何百年もの間ただ記録されるだけだった無念の魂たちが、今、自分の声によって一つの力となり、呪いを祓うための巨大な奔流となろうとしている。
彼はそう、確信していた。
その時だった。
桐箱の振動に、別の音が混じり始めた。
ううううううううう……。
それは、うめき声だった。
初めは風の唸り声のようにも聞こえた。
だが、その音は次第に数を増し重なり合い、それぞれの箱の中から個別の声として響き始めたのだ。
一つ一つの桐箱が、まるで棺の中で永い眠りについていた死者が無理やり起こされたかのように、不満げで苦しげな呻き声を上げている。
快はこれを浄化の過程で起こる苦しみだと解釈した。
呪いに囚われた魂たちが断末魔の叫びを上げているのだ、と。
彼はさらに力を込め、言霊を紡ぎ出す。
だが、そのうめき声は消えるどころか、さらに明瞭な個別の「声」へと変わっていった。
「……いたい……いたいよう……」
それは幼子の啜り泣く声だった。
【園部男児葬送記録】の桐箱からだ。
「……なぜだ……なぜ、わしだけが……」
それは老人の怨嗟の声。
【高木家確執供養】の桐箱からだ。
「……寒い。水の中は、もう、嫌じゃ……」
それは少女の哀願の声。
【村上藩幼子水死記録】の桐箱からだ。
園部健太。高木茂則。吉田徳三。橘宗一。佐伯美月。久坂理人。
彼が読み解いてきた全ての記録。
その記録に名を連ねる全ての死者たちが、それぞれの棺の中でそれぞれの無念を、それぞれの苦しみを、一斉に訴え始めたのだ。
それは、浄化の光景ではなかった。
快の顔から勝利の笑みがゆっくりと消えていく。
何かがおかしい。
彼の儀式は全ての怨念を一つの大きな力として束ね、それを破邪の力へと転換するはずだった。
だが今起きている現象は、それとは真逆だ。
バラバラだった魂たちがそれぞれの個別の「怨念」を保ったまま、ただ呼び覚まされている。
そうだ。
彼は、気づいてしまった。
彼が編み出したこの儀式。
真言宗の陀羅尼、修験道の呪文、陰陽道の祓詞。
異なる宗派、異なる思想、異なる力の体系。
それらを彼はただ、力任せに繋ぎ合わせただけだった。
それぞれの儀式は特定の怨霊を調伏するためだけに特化した、繊細で排他的な刃。
それらを無理やり束ねただけの言霊は、浄化のための調和した響きにはなり得なかったのだ。
彼の言霊は、特定の怨念を祓うどころか、全ての怨念に対して平等に作用する強力な「覚醒剤」となってしまった。
彼の声は呪いを祓う破邪の刃ではなかった。
それは墓守が何百年もの間静かに眠らせてきた全ての記録に宿る怨念を、根こそぎ呼び覚まし、そして増幅させてしまう、最悪の引き金だったのだ。
「……あ……」
快の口から読経ではない、ただの乾いた呼気が漏れた。
彼が事態の絶望的な誤算に気づいた、その瞬間。
書庫に満ちる声の質が、再び変わった。
うめき声や嘆きの声ではない。
それは、明確な怒りだった。
「「「「「ゆるさない」」」」」
一つの声ではない。
何百、何千という男女老若の声が、一つの巨大な悪意の塊となって快に叩きつけられる。
「なぜ、我々だけが」
「なぜ、お前はそこにいる」
「お前も、こちらへ来い」
「「「「「引きずり込んでやる」」」」」
言霊の奔流が物理的な力となって快の身体を打ち据える。
彼の耳から、鼻から、そして目から細い血の筋が流れ始めた。
もはや彼の読経の声などどこにも聞こえない。
彼の声は彼自身が呼び覚ましてしまった巨大な怨念の合唱の中に、完全に飲み込まれてしまっていた。
ガタガタガタガタッ!
棚の上の桐箱たちがまるで生き物のように激しく暴れ始める。
いくつかの箱が棚から滑り落ち、床に叩きつけられて砕け散った。
快は血の曼荼羅の中心でただ呆然と、その光景を見つめていた。
彼の顔にはもはや狂信者の万能感など一片も残っていない。
そこにあるのは自らの傲慢さが招いた取り返しのつかない結末を前にした、一人の人間の、純粋で絶対的な絶望の色だけだった。
彼の視界の隅で、一番新しい記録が納められていた棚。
その棚に置かれていた一つの桐箱が、ひときわ大きく、ぎしり、と軋むのが見えた。
【佐伯美月合同葬送記録】。
その桐の箱の、固く合わさった蓋の隙間から。
一筋、黒く、濁った水が、じわり、と滲み出した。




