第五十二話:破邪の夜
遠山快は、自らが血で描き上げた冒涜的な曼荼羅の中心で静かに座禅を組んでいた。
彼の心は嵐の前の海のように、不気味なほど凪いでいた。
恐怖も、迷いも、師への罪悪感さえも、その凪いだ水面の遥か底へと沈みきっている。
今、彼の魂を満たしているのは自らが神か悪魔にでもなったかのような、昏く絶対的な万能感だけだった。
彼はただ待つ。
天が、その荒れ狂う鉄槌をこの高野山の聖域へと振り下ろす、その瞬間を。
その兆候は、まず音もなく訪れた。
書庫の外、これまで聞こえていた虫の声、風にそよぐ木々の葉擦れの音がふっと消えたのだ。
まるで山全体が息を殺したかのように。
続いて、それまで寺の上空に浮かんでいた雲が目に見える速さでその流れを速め、巨大な黒い渦となって空を覆い尽くしていく。
太陽の光は完全に遮られ、まだ昼過ぎだというのに辺りは夕暮れのような薄闇に包まれた。
そして、風が吹き始めた。
初めは杉の木々の梢を寂しく揺らすか細い風だった。
だが、それは数分もしないうちに唸り声を上げる獣のような暴風へとその姿を変えた。
千二百年の時を生きてきた杉の巨木が、根こそぎ引き抜かれんばかりに激しくしなり、ぎしり、ぎしりと悲鳴のような軋り音を立てる。
ぽつ、ぽつ。
乾いた石の屋根を大粒の雨粒が叩き始めた。
その間隔は瞬く間に狭まり、やがてそれは「音」の塊となった。
ザアアアアアアアアアアアッ!
天の底が抜けた。滝だ。
無数の滝が天から地上へと垂直に叩きつけられている。
凄まじい雨音が石造りの書庫の内部にまで轟き、快の鼓膜を激しく震わせた。
観測史上最大級の台風が、ついにこの高野山に上陸したのだ。
風が吠え、雨が寺を叩きつける。
その荒れ狂う嵐の中心、外界から完全に隔絶されたこの石造りの書庫の中で、遠山快はゆっくりとその瞼を開いた。
彼の目は、熱病のように爛々と輝いていた。
来た。
天が、我に応えた。
彼が禁書の中から見つけ出したあまりに危険な儀式。
その最後の、そして最も重要な構成要素。
人力では到底生み出すことのできない、圧倒的な自然の力。
陰陽道の秘術にあった、天そのものが持つ暴力的なまでの水の力。
彼はこの嵐の力を自らの儀式に取り込むつもりだったのだ。
この呪われた水脈を、より巨大な天の濁流で根こそぎ洗い流すために。
快は、その痩せこけた身体に最後の力を振り絞るようにしてゆっくりと印を結んだ。
不動明王の慈救呪ではない。
彼が結んだのは禁書にあった、鬼神をその身に降ろすための異形の印だった。
そして、彼はその乾ききった唇を開いた。
「――オン・サラバ・タタギャタ・ハンナマンナ・ノウ・キャロミ」
彼の口から紡ぎ出されたのは清浄な経文ではなかった。
それは彼が自らの手で編み出した、冒涜的な言霊の連なりだった。
真言宗の厳かな陀羅尼に修験道の荒々しい呪文が混じり合い、陰陽道の祓詞がその隙間を縫うように絡みついている。
正と邪、仏と魔、神と鬼。相反するはずの力が彼の声の中で、一つの醜悪で、しかし強大な渦となって練り上げられていく。
彼の声は初めはか細く、嵐の轟音にかき消されそうだった。
だが、彼は構わず唱え続けた。
その声は次第に力を増していく。腹の底から絞り出すような力強い声。
その声はもはや彼の声ではなかった。
それは何百年という歳月をかけてこの書庫に蓄積されてきた、無数の僧侶たちの無念と怒りを全て代弁するかのような、重く怨嗟に満ちた響きを帯びていた。
「――ノウマク・サンマンダ・バザラダン・カン!」
彼の声が書庫の空気を震わせる。
その言霊に呼応するかのように、彼が血で描き上げた床の曼荼羅がぼう、と淡い赤黒い光を放ち始めた。
円の中心に描かれた絶望の渦が、まるで生きている心臓のようにゆっくりと脈動する。
壁一面に書き連ねられた血の文字がぬらりとした光沢を帯び、そこから黒い霧のようなものが滲み出し始めた。
書庫の中はもはやただの石室ではなかった。
彼の狂気が作り出した巨大な呪詛の祭壇。
その中心で彼は、神か悪魔か、あるいはそのどちらでもない何かの依り代と化していた。
外では嵐が猛威の頂点を迎えようとしていた。
稲光が走り、一瞬だけ書庫の内部を青白く照らし出す。
その光の中に浮かび上がった快の顔はもはや僧侶のそれではない。
その目は大きく見開かれ、その口からは人ならざる言霊が濁流のように溢れ出していた。
彼の声はついに外の嵐の轟音と拮抗するほどの、凄まじい力を持つに至った。
風の唸り声、雨の叩きつける音、そして彼の冒涜的な読経の声。
三つの音が混じり合い、この高野山の最も深い場所で恐るべき不協和音となって鳴り響く。
「――アビラウンケン・ソワカ!」
彼が鬼神を呼び出すための最後の真言を、絶叫と共に唱え上げた、その瞬間だった。
書庫全体が、大きく、長く、揺れた。
それは嵐の力によるものではない。
彼の言霊に、この書庫そのものが応えたのだ。
彼の周囲を観客のように取り囲んでいた、千を超える桐の箱。
その全てが、一斉にカタカタカタ、と微かな、しかし無数の振動を始めた。
何かが、目覚めようとしていた。
何百年もの間、この箱の中に封じ込められてきた、無数の絶望が。
快は、その最初の振動を肌で感じながら、その口元に狂気に満ちた勝利の笑みを浮かべた。
儀式は、始まったのだ。
そして、もう誰にも止めることはできない。




