第五十一話:儀式の構築
遠山快は、再びあの石造りの書庫に自らを封じ込めた。
だが今度の籠城は、以前の探求のためのそれとは全く異なっていた。
以前の彼が暗闇の中で手探りで答えを探す研究者だったとすれば、今の彼は自らが信じる唯一の答えのために、神仏さえも実験台に乗せる狂気の魔術師だった。
彼はまず、書庫の床に散らばっていた千を超える桐の箱を壁際の棚へと全て戻した。
ただし、それは整然とした収納ではなかった。
彼は全ての箱を蓋が開け放たれたまま、その呪われた記録の表題が中央の空間を向くように配置した。
まるで無数の観客が、これから中央の舞台で行われる儀式を見つめているかのように。
あるいは、これから捧げられる生贄を飢えた目で待ち構えているかのように。
書庫の中は、師から受け継いだ古墨の匂いと淀んだ水の腐臭に、本堂の床下から持ち出した禁書が放つ乾いた薬草と獣の血の匂いが混じり合い、むせ返るような異臭となっていた。
快はその異臭の中でただ黙々と、自らが編み出した狂気の儀式の準備を進めていった。
彼の最初の仕事は、書庫の中央、冷たい石の床に巨大な曼荼羅を描くことだった。
だが、彼が描くそれは仏の悟りの世界を図示した清浄なものでは断じてなかった。
彼は禁書にあった陰陽道の術を参考に、砕いた朱砂と孔雀石の粉末を自らの指から滴らせた血で練り上げた。
そして、その生々しい血の顔料を使い床石の上に巨大な円を描き始めたのだ。
円の中心に描かれたのは蓮華座に座す如来ではない。
それは彼が『秘匿葬送記録』を読み解く中で感得した『雨濡』の根源的な形――渦だった。
全てを吸い込み、全てを飲み込み、そして全てを水底へと引きずり込む巨大な絶望の渦。
その渦を中心に彼は放射状に無数の線を描き加えていく。
それは彼が地図の上に描き出した、日本列島を縦断する呪いの「水脈」の写しだった。
そして、その水脈の流れの上には彼が記憶する限りの犠牲者たちの名前が、梵字を模した、しかし苦悶に歪んだ異形の文字でびっしりと書き連ねられていった。
園部健太、橘宗一、久坂理人、そして佐伯美月。
名前を一つ書き加えるたびに、快の唇から経文ではない、うめき声のような低い声が漏れた。
それは弔いではない。
彼らの無念を、怒りを、絶望を、この儀式を駆動させるための燃料としてこの曼荼羅に注ぎ込むための、冒涜的な言霊だった。
床の曼荼羅を完成させると、彼は次に書庫の四方の壁へと向かった。
その手にはあの写経の際に使った血の墨を満たした硯が握られている。
彼はその血の墨をたっぷりと含ませた筆で、石の壁一面に禁書から選び出した梵字と呪符を書き連ねていった。
不動明王の火炎呪ではない。
彼が壁に描いたのは、修験道に伝わる鬼神を呼び出し怨霊を喰らわせるという荒行の呪文。
そして術者の生命を触媒として、呪いを増幅させて打ち返すという呪詛返しのための禁断の護符。
壁一面を埋め尽くす黒々とした血の文字。
それは聖なる結界などではなかった。
それはこの書庫そのものを、呪いを呼び込み増幅させ、そして打ち返すための巨大な呪詛の装置へと変貌させるための設計図だった。
何日、そうしていたのだろうか。
快は食うことも眠ることも、完全に忘れていた。
蝋燭の炎だけが、彼の狂気じみた作業を静かに照らし続けている。
彼の目は落ち窪み、その奥には熱病のような、しかしどこか人間離れした昏い光だけがぎらついていた。
頬は無惨にこけ、血の気のない皮膚は書庫の湿気で常にじっとりと濡れていた。
血と朱砂と墨で汚れた衣をまとったその姿は、もはや僧侶というよりは、自らが作り出した狂気の淵に立つ痩せこけた魔術師のそれだった。
全ての準備を終えた日。
快は書庫の片隅に置いていた小さな電池式のラジオのスイッチを入れた。
寺は俗世から隔絶されているが、この小さな機械だけが彼を外の世界と繋ぐ唯一の糸だった。
雑音混じりのスピーカーから、無機質なアナウンサーの声が聞こえてくる。
『――大型で猛烈な台風12号は、現在日本の南の海上を北上しており、明後日の未明にも紀伊半島に上陸する見込みです。
中心気圧は920ヘクトパスカル。観測史上最大級の勢力を保ったまま上陸する恐れがあります。
周辺の地域では、これまでに経験したことのないような記録的な暴風と大雨に、最大級の警戒が必要です――』
その絶望的な未来を告げるアナウンサーの声を、快は恍惚とした表情で聞いていた。
彼の目は血走ったまま大きく見開かれている。
「……来たか」
彼の唇から乾いた、そして喜びに満ちた声が漏れた。
彼は、これを待っていたのだ。
彼が禁書の中から見つけ出したあまりに危険な儀式。
その最後の、そして最も重要な構成要素。
それは人力では到底生み出すことのできない、圧倒的な自然の力だった。
陰陽道の秘術にあった、天そのものが持つ暴力的なまでの水の力。
彼はそれを自らの儀式に取り込むつもりだったのだ。
観測史上最大-級の台風。
それは、天がこの地に下す災厄ではない。
それは天が、この自分に与えたもうた好機なのだ。
呪いの水脈を、より巨大な天の濁流で根こそぎ洗い流すための。
快はラジオのスイッチを切った。
書庫は再び、蝋燭の光だけが揺れる静寂の世界へと戻る。
彼は自らが血で描き上げた巨大な曼荼-羅の中心へとゆっくりと歩を進めた。
そして、その渦の中心に静かに座禅を組んだ。
彼の周囲には観客のように、蓋を開け放たれた千を超える「敗北の記録」が並んでいる。
壁には血で書かれた鬼神を呼ぶ呪文が、蝋燭の光を浴びてぬらりとした光を放っている。
彼は静かに目を閉じた。
その姿はもはや僧侶でも、魔術師でもなかった。
それは、自らの身を祭壇に捧げ神と悪魔を同時に呼び出し、この世の全てを賭けた大博打に打って出ようとしている、一人の狂信者だった。
彼はただ待つ。
天が、その荒れ狂う鉄槌をこの高野山の聖域へと振り下ろす、その瞬間を。




