第五十話:破戒の覚悟
文机の上に広げられた一枚の和紙。
そこに書かれるはずだった清浄な経文は、今や血の涙のように滲んだ醜悪な染みと化し、無数の死者たちの苦悶の顔を映し出す呪われた鏡となっていた。
遠山快は、その冒涜的な光景から目を逸らすことなく、ただじっと見つめ続けていた。
彼の心の中で、師、慈恩が遺した最後の教えがガラガラと音を立てて完全に崩れ落ちていくのがわかった。
「観測せよ」。
その言葉はもはや賢者の戒めではなかった。
あれは呪いだ。深淵を前にしてただ手をこまねいていろという、緩やかな自殺を強いるための呪縛だ。
観測は、死だ。
記録は、敗北の積み重ねでしかない。
手水舎から流れ続ける黒い水。
この自らの内側から侵食してくる血の墨。
聖域さえも汚染され始めたこの期に及んでなお師の教えを守り続けることは、この寺を、この高野山を、そして『秘匿葬送記録』に名を連ねる全ての犠牲者たちの無念を見殺しにすることに他ならない。
「……師匠」
快は血走った目で机の上の冒涜的な染みを見つめながら、固く、固く、拳を握りしめた。
「あんたのやり方では、もう誰も救えない」
戦うしかない。
たとえ、それがさらなる破滅への道だとしても。
いや、このまま何もしなくても待っているのは破滅だけなのだ。
ならば万に一つの可能性に賭ける。自らの手で、この呪いの連鎖を断ち切るのだ。
その決意は、もはや彼の心を燃やす青い炎ではなかった。
それは全てを焼き尽くす覚悟を決めた、静かで絶対零度の狂気だった。
快は静かに立ち上がると自室を出て、師、慈恩が生前使っていた居室へと向かった。
そこは師が亡くなってから一度も足を踏み入れていない場所だった。
埃と、師が愛用していた古い線香の香りが静かに彼を迎えた。
彼は師が遺したわずかな私物を一つ一つ丁寧に調べていった。
経文の棚、衣を収めた箪笥。
彼が探しているのは、師が生涯をかけてひた隠しにしてきたであろう「もう一つの蔵書」の在り処だった。
ネットワークの同胞たちと交わされた手紙の束を調べていた時、彼はその中に挟まれていた一枚の古く黄ばんだ紙片を見つけた。
そこには師のものとは思えない乱れた筆跡で、こう記されていた。
『――外法は、本堂、須弥壇の真下。
仏の足元にこそ、魔は潜む』
快は、その紙片を強く握りしめた。これだ。
彼は本堂へと向かった。
がらんとした本堂の中央には巨大な本尊が鎮座する須弥壇が、荘厳な威容を誇っている。
快はその須弥壇の前にひざまずくと、その土台となっている古い木製の床板を一枚一枚、指で叩いて音を確かめていった。
そして、須弥壇の最も奥深く、本尊の真下に位置する一枚の床板だけが、他とは違う空虚な音を立てるのを発見した。
彼は指を隙間にねじ込み、力を込めてその床板をこじ開ける。
ぎ、という長い軋り音と共に、床下に続く黒くかび臭い口が姿を現した。
その闇の底に、一つの古びた長持がまるで巨大な棺のように鎮座していた。
表面には朱墨で書かれた梵字の呪符が幾重にも貼り付けられている。
その一枚一枚が、この中に眠る知識の危険性を無言のうちに物語っていた。
快は躊躇わなかった。
彼はその呪符を一枚、また一枚と力任せに引き剥がしていく。
そして重い長持の蓋を、渾身の力で持ち上げた。
中から、むわりと濃密な空気が溢れ出してきた。
それはあの『秘匿葬送記録』の書庫の腐臭とはまた質の違う匂いだった。
乾いた薬草の匂い、獣の血の匂い、そして人間の強い情念が凝縮されたかのような、むせ返るほどの濃いインクの匂い。
長持の中には様々な宗派の、そして正統な仏教からは「外法」として排斥されてきたであろう禁断の古文書が、無作法に詰め込まれていた。
快は蝋燭の光を頼りに、その禁書を一冊、また一冊と貪るように読み始めた。
そこは人の理を超えた、神仏と魔がせめぎ合う狂気の世界だった。
一枚の古文書には、真言立川流の男女交合の秘儀をもって即身仏となるという、冒涜的なまでの修行法が記されていた。
別の巻物には、修験道に伝わる荒々しい悪霊調伏の法が。
それは怨霊を説き伏せ浄化するのではなく、より強力な鬼神を自らの身に降ろし怨霊を喰らわせるという、あまりに危険な荒行だった。
陰陽道から取り入れられたのであろう呪詛返しの儀式を記した書もあった。
それは術者の生命そのものを触媒として、受けた呪いを何倍にも増幅させて相手に返すという諸刃の剣の秘術。
それらは全て、師が、そしてネットワークが危険すぎると判断し、仏の足元に封印してきた禁断の知識。
道を誤れば術者自身が仏ではなく魔に堕ちる、破戒の技法だった。
だが、今の快にとってそれらは希望の光に見えた。
「観測」という無力な正道ではない。
自ら手を汚し、毒をもって毒を制すための具体的な「力」が、ここにはあった。
彼はそれらの断片的な知識を狂ったように自分の脳内へと叩き込んでいく。
そして、彼がこれまでの探求で得た『雨濡』に関する膨大なデータと、それらの禁書に記された破邪の秘術を、頭の中で組み合わせ再構築し始めた。
彼の思考はもはや常人のそれではない。
僧侶としてではなく、危険な化学実験に没頭する狂気の科学者のように、彼は一つの結論へと突き進んでいった。
『雨濡』の性質。
それは「水脈」に沿って伝播し、故人の「強い未練」を引き金とする。
そして何より、それを「探求」しようとする強い意志に引き寄せられる。
ならば。
ならば、その性質を逆用すればいい。
自らがこれまでで最も強力な「探求者」となり、『雨濡』の全ての力をこの一点に引き寄せるのだ。
そして、集まってきた呪いの奔流をただ受け止めるのではない。
修験道の荒行のように、より強大な力をぶつけこれを滅する。
その強大な力とは何か。
陰陽道の秘術にあった自然の力。そうだ、嵐だ。
台風のような天そのものが持つ圧倒的な水の力。その力を儀式に取り込み増幅させる。
そして、その増幅させた水の力で呪いの水脈を根こそぎ洗い流すのだ。
「……そうだ……これしか、ない……」
快は血走った目でその狂気じみた儀式の骨子を、手元の和紙に書き殴っていった。
それはもはや浄化の儀式などではなかった。
呪いとより巨大な自然の力とを正面から衝突させ、その双方を消滅させようという、あまりに傲慢で、そしてあまりに危険な自爆覚悟の戦術。
彼は必要な知識の全てを頭に叩き込むと、禁書の山を後にした。
彼の顔にはもはや迷いも恐怖もなかった。
そこにあったのは、自らが神かあるいは悪魔にでもなったかのような、狂気に満ちた昏い万能感だけだった。
彼はその足で、再びあの石造りの書庫へと向かった。
これから始まるのは、浄化ではない。
戦いだ。
そして、その戦場はあの呪われた記録たちが眠る書庫以外にはあり得なかった。




