第四十九話:血の墨
手水舎から流れ続ける、あの黒く濁った呪いの水。
その光景は遠山快の瞳の裏側に、醜悪な染みとなって焼き付いて離れない。
聖域はもはや聖域ではなかった。
『雨濡』は、自分がこじ開けてしまった書庫という一点の傷口から、高野山という巨大な霊峰の、その水脈そのものにまで汚染を広げ始めたのだ。
絶望が再び彼の心を支配しようとしていた。
だが、それはもはや、あの書庫で味わったような精神を砕く虚脱感ではなかった。
猶予はない。
このままでは、この聖域そのものが呪いの巨大な培養槽と化してしまう。
師の教えに背いてでも。自らの身がどうなろうとも。
この流れを、食い止めなくては。
彼の瞳の奥で、狂気と紙一重の新たな決意の光が静かに灯り始めていた。
だが焦燥だけでは道は見えぬ。
あまりに多くの記録を読み解き、あまりに多くの死と絶望に触れた彼の精神は疲弊の極致にあった。
彼は一度心を整える必要があった。
汚染されていく外界から己を切り離し、僧侶としての原点に立ち返ることで、この混沌とした状況を打開する唯一の道を見出さなくてはならない。
快は自身の私室へと戻った。
そして文机の前に、静かに正座した。
机の上には真新しい和紙の束と硯、そして一本の古びた墨。
彼が物心ついた時から心を鎮めるために行ってきた、唯一にして絶対の精神統一法。
写経だ。
部屋の空気は、寺全体に広がり始めたあの淀んだ湿気を帯びている。
だが、彼はそれを意識の外へと追い出すようにゆっくりと深く息を吸い込んだ。
これから行うのは神聖な儀式だ。
般若心経の一文字一文字を全身全霊を込めて書き写すことで、この乱れきった精神の波を鎮め、そしてあの呪いに打ち勝つための不動の覚悟を練り上げるのだ。
彼はまず、硯箱から美しい龍眼石で作られた硯を取り出した。
その滑らかでひやりとした石の感触が、彼のささくれだった神経をわずかに鎮めてくれる。
彼は硯の「陸」と呼ばれる部分を清浄な布で丁寧に拭うと、次に山から汲んできたばかりの清らかな湧き水を満たした小さな水差しを手に取った。
手水舎の水はすでに汚染されていた。
だがこの水は、寺のさらに奥深く、まだ呪いの手が及んでいないはずの岩清水から彼が今朝早く汲んできたものだ。
彼はその透明な水を一滴、また一滴と硯の「海」と呼ばれる窪みへと慎重に注いでいく。
澄み切った水が、硯の黒い石の上で宝石のようにきらめいた。
次に彼は、古びた墨を手に取った。
師、慈恩から譲り受けた唐墨だ。
その表面には長い年月をかけて師が握りしめてきた滑らかな窪みができていた。
快はその窪みに自らの指を合わせると、静かに目を閉じた。
墨のかぐわしい清浄な香りが、彼の心を過去へと誘う。
師と共に無心で墨を磨った、遠い日の記憶。
「……師匠」
彼は心の中でだけ、そう呼びかけた。
「俺は、あなたの教えを破ります。
ですが、見守っていてください」
快は目を開けると、その墨の先端を硯の海に注がれた清らかな水に浸した。
そして、ゆっくりと円を描くようにその墨を磨り始めた。
しゃり、しゃり、しゃり……。
静かな部屋の中に、墨が硯石と擦れ合う心地よく規則的な音だけが響き渡る。
それは瞑想にも似た、穏やかな時間のはずだった。
だが、数回墨を磨った、その時だった。
彼は硯の海に注がれた水の色が、わずかにおかしいことに気づいた。
本来ならば磨られた墨の黒い粒子が溶け出し、水は徐々に美しい漆黒へと変わっていくはずだ。
だが、今の水の色はどこか濁っていた。黒というよりは、赤黒い。
「……?」
快は手を止めた。そして硯の海を凝視する。
気のせいではない。清らかだったはずの水が、その中心からまるで傷口から血が滲み出してくるかのように、じわり、と赤黒く染まっていく。
その赤黒い色は彼が墨を磨るのをやめてもなお、その濃度をゆっくりと、しかし確実に増していくようだった。
『雨濡』は、ついにここまで侵食してきたのだ。
聖域である寺の空気だけではない。
この、自分の内なる聖域であるはずの、精神統一の儀式そのものにまで。
快は背筋が凍りつくのを感じながらも、その手を止めなかった。いや、止められなかった。
彼はこの怪異の行く末を、その正体を、この目で見届けなくてはならないという研究者のような冷たい衝動に駆られていた。
しゃり、しゃり、しゃり……。
彼は再び墨を磨り始めた。
その音はもはや心地よい響きではなかった。
それは骨と骨とが擦れ合うような、不快で湿った音へと変わっていた。
そして硯の海の水は、もはやただの墨汁ではなかった。
それは、どろりとした粘り気を帯び、そして生臭い匂いを放ち始めた。
鉄錆と、そして古くなった血のような、冒涜的な匂い。
磨り上がった墨はもはや墨ではなかった。
それは、凝固しかけた黒い血の塊だった。
快は震える手で墨を置いた。そして、筆を手に取る。
穂先は獣毛で作られた清浄なはずの筆。
彼はその穂先を、硯の海に満たされた血のような液体にゆっくりと浸した。
筆が、どろりとした液体をたっぷりと吸い上げる。
その重みが、彼の腕にずしりとのしかかる。
彼は目の前に広げられた真っ白な和紙を見つめた。
そして意を決すると、その筆の穂先を和紙の上へとそっと下ろした。
般若心経の、最初の一文字。「観」。
だが、彼が書き下ろしたそれは、もはや文字ではなかった。
筆の穂先が和紙に触れた瞬間、血の墨は彼の意図を完全に裏切り、和紙の上でじゅわ、と音を立てるかのように不規則に滲み、広がっていったのだ。
それは、まるで和紙そのものが涙を流しているかのようだった。
彼が書こうとした「観」という文字の縦線が、まるで血の涙のように和紙の上をだらりと流れ落ちていく。
そして、その一滴の染みからさらに毛細血管のような黒い筋が四方八方へと這い出し、その清浄なはずの白い紙の上に醜悪な黒い染みを広げていった。
快は、息を呑んだままその光景から目を離せなかった。
染みは、ただの染みではなかった。
それは、形を持っていた。
水面に映る、苦悶に歪んだ無数の顔。
あるいは、水底からこちらを掴もうと伸ばされた、無数の腕。
彼があの書庫で見た絶望の光景そのものが、今この一枚の和紙の上に、おぞましい万華鏡のように次々と浮かび上がっては消えていく。
「……あ……ああ……」
快は筆を取り落とした。
筆はことり、と音をてて文机の上に転がり、その穂先に含まれた血の墨がさらに新たな黒い染みを和紙の上に作り出した。
もはや、清浄な場所などどこにもない。
呪いは寺の外の聖域だけではない。
この自分の内側、自分の精神、そして自分が拠り所としてきたこの信仰の形そのものにまで、深く、深く侵食してきていたのだ。
快は、その涙を流すかのように滲み続ける冒涜的な経文を、ただ呆然と見つめていた。
彼の心の中で、師が遺した「観測せよ」という最後の教えが、ガラガラと音を立てて完全に崩れ落ちていく。
観測など、もはや緩やかな自殺行為でしかない。
このままでは自分も、この寺も、そしてこの聖域も、全てがこの黒い染みに飲み込まれてしまう。
戦うしかない。
たとえ、それがさらなる破滅への道だとしても。
快は血走った目で机の上の冒涜的な染みを見つめながら、固く、固く、拳を握りしめた。




