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秘匿葬送記録  作者: 月影 朔


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第四十八話:聖域の染み

 意識が、氷のように冷たい石の床からゆっくりと引き剥がされるように浮上した。


 遠山快はどれくらいの時間気を失っていたのか、見当もつかなかった。

最後に見た光景――黒い水面に映る無数の死者の顔、そしてにたりと笑いながら手を伸ばしてくる自分自身の溺死体の顔――が、網膜の裏側に焼き付いたまま彼の思考を麻痺させていた。


 彼は震える腕でゆっくりと身を起こした。

書庫の中は、いつものように蝋燭の頼りない光だけが揺らめく静寂の世界に戻っていた。

あれほど激しい勢いで床を満たしていた黒い水は跡形もなく消え失せている。


 だが、あれは夢ではなかった。

快が身にまとった衣は、まるで川にでも落ちたかのようにじっとりと濡れそぼり、そこからはあの川底の腐臭が立ち上っていた。

そして彼が倒れていた石の床には、まるで巨大な獣が這いずり回ったかのように、黒く粘ついた染みが醜悪な模様を描いて残っていた。


「……う、ぁ……」


 声にならない呻きが彼の喉から漏れた。

師、慈恩の最後の言葉が、今や呪いの言霊となって彼の脳髄を内側から打ち続ける。


『戦うな』


『あれは戦って勝てる相手ではない』


『戦おうとすればするほど、ただ足を取られ引きずり込まれるだけじゃ』


 師は正しかった。

自分はあまりに傲慢で、あまりに無知だった。

呪いを解明し浄化するなどという烏滸がましい考えを抱いたがゆえに、自分自身が呪いの「餌」となり、そしてこの書庫にかけられていた長年の封印を自らの手で破壊してしまったのだ。


 絶望が、冷たい泥水のように彼の心を隅々まで満たしていく。

彼はもはや立ち上がることさえ億劫だった。

このまま、この冷たい石の床の上で朽ち果てていく。

それが禁忌を破った自分に与えられた当然の報いなのかもしれない。


 だが、その虚脱感に満たた彼の思考を、腹の底から突き上げてくる生理的な欲求があった。

渇きだ。喉が、まるで灼けた鉄のように乾ききっている。

彼は這うようにして書庫の重い石の扉を開けると、よろめきながら寺の庫裏へと向かった。


 どれだけ時間が経ったのか。

窓の外はまだ夜が明けきらない深い藍色に沈んでいた。

快は僧侶としての長年の習慣だけが彼の抜け殻となった肉体を動かしているかのように、機械的に朝の勤めの準備を始めた。

顔を洗い、身を清め、本堂へと向かう。


 だがその時から、彼は気づき始めていた。

この寺の「空気」が、明らかに変わってしまっていることに。


 高野山の朝は本来、杉の木々が放つ清浄な香りと凛とした冷気で満たされているはずだった。

だが今、快が吸い込む空気はどこか粘り気を帯び、重く、そして湿っていた。

まるで山全体が、巨大な濡れた布で覆われてしまったかのようだ。


 彼は本堂で独り朝の読経を始めた。

だが、その声はひどくかすれ経文は途切れ途切れになった。集中できない。

彼の意識は読経という神聖な行為ではなく、寺のあちこちから聞こえてくる微かな物音に絶えず引き寄せられてしまうのだ。


 ぎし、と本堂の床板が軋む音。ぴちょん、と屋根のどこかから水滴が落ちる音。

それらはこれまでも聞こえていたありふれた物音のはずだった。

だが今の彼の耳には、その全ての音が、あの書庫で聞いた呪いの蠢きのように聞こえてならなかった。


 読経を終え、彼は竹箒を手に境内の掃除を始めた。

だが、ここでも彼は異変に気づかざるを得なかった。

掃いても掃いても、石畳や地面の土がまるで涙を流しているかのようにじっとりと湿っているのだ。


 普段ならば箒の先で乾いた土埃が舞い上がるはずなのに、今はただ湿った砂が箒の先に重くまとわりついてくるだけ。

そして石灯籠や木の根元に密生している苔。その色がいつもよりも深く、病的なまでに黒ずんで見えた。


 快は思わず空を見上げた。

空は晴れている。夏の力強い朝日が杉の木々の間から差し込んでいる。

だというのに、その光はどこか弱々しく、まるで薄い水膜を一枚通したかのようにその輪郭がぼやけて見えた。


 聖域であるはずの高野山の空気が、その清浄さを失い始めている。

あの書庫から溢れ出した呪いの染みがこの寺全体を、そしてこの山そのものを、ゆっくりと、しかし確実に汚染し始めているのだ。


 その戦慄すべき確信に、快は全身の血が凍りつくのを感じた。

彼は額から噴き出す冷や汗を拭うのも忘れ、ある場所へとまるで何かに取り憑かれたかのように走り出した。


手水舎。


 境内の隅にひっそりと佇む、身を清めるための場所。

山から引かれた清らかな湧き水が苔むした竜の口から絶え間なく吐き出され、下の水盤を満たしている。

そのせせらぎの音だけが、この寺に残された唯一の清浄な響きのように快には思えた。


 彼は昨夜から続く自身の内にこびりついた恐怖と穢れを洗い流そうと、そこに備え付けられた柄杓を手に取った。

竹筒から流れ落ちる水はいつもと変わらない。透明で、冷たく、そして生命力に満ちているように見えた。


 彼はその清らかな水を柄杓にたっぷりと掬い上げた。

そして、まずその水で手を清める。氷のような冷たさが彼の火照った皮膚を鎮めていく。

次に彼は口をすすごうと、柄杓をゆっくりと口元へと近づけた。


 その、瞬間だった。

彼は、その水の「匂い」が違うことに気づいた。


 それは本来あるべき岩清水の無垢な匂いではなかった。

ごく微かに、しかし確実にあの匂いが混じっていた。


 川底の、泥の匂い。


「……え?」


 快は柄杓を口元で止めたまま、その中の水を凝視した。

気のせいではない。透明だったはずの水の中に、ごく微細な黒い粒子のようなものがいくつも浮遊しているのが見えた。

そしてその黒い粒子はまるで生き物のように、ゆっくりとその数を増やし始めた。


 彼は息を呑んだ。

目の前であり得ない光景が進行していた。


 柄杓の中の清らかな水が、その中心からまるで墨汁を一滴落としたかのように、じわり、と黒く染まっていく。

その黒は瞬く間に水全体へと広がり、ほんの数秒のうちに、柄杓の中の水は完全にあの書庫で見た黒く濁った泥水へと変貌してしまったのだ。


 そして、立ち上る強烈な悪臭。

川底の泥と、腐敗した水草と、そして何かが死んでいく匂い。

あの記録の中に何度も、何度も登場した、あの冒涜的な匂い。


「――う、わっ!」


 快は短い悲鳴と共に反射的に柄杓を投げ捨てた。

柄杓はカラン、と乾いた音を立てて地面の砂利の上に転がる。

そして、その中からこぼれ落ちた黒い水が、清浄なはずの白い砂利の上に醜悪な黒い染みを作った。


 彼は呆然と、手水舎の竜の口を見つめた。

そこから流れ落ち続けている水。それはもはや聖域の清らかな湧き水ではなかった。

どろりとした粘り気のある、黒く濁った呪いの水が、絶え間なく、そして無尽蔵にそこから吐き出され続けていた。


 書庫という、たった一点の結界は破られた。

自分が引き金を引いたことで『雨濡』は、この高野山の聖なる水脈そのものにまで、その汚染を広げ始めたのだ。


 絶望が再び彼の心を支配する。

だが、その絶望はもはや虚脱感ではなかった。


 猶予はない。

このままでは、この聖域そのものが呪いの巨大な培養槽と化してしまう。


 何とかしなくてはならない。

師の教えに背いてでも。自らの身がどうなろうとも。


 この流れを、食い止めなくては。


 快の瞳の奥で、狂気と紙一重の新たな決意の光が、静かに灯り始めていた。

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