第四十七話:水底からの視線
ぴちょん。
彼の背後。固く閉ざされたはずの石の扉の向こう側から響いた、粘り気のある現実の水音。
それは、遠山快の張り詰めていた理性の最後の糸を無慈悲に断ち切った。
幻聴ではない。疲労でもない。
「何か」が、彼の発見に応えたのだ。
そして、彼を呼びに来たのだ。
快は錆びついたブリキの人形のように、ゆっくりと扉の方を振り返ったまま凍りついていた。
彼の精神と肉体はとうの昔に限界を超えていた。
何日も続いた不眠不休の探求は彼の若々しかった頬を無惨にこけさせ、その瞳の奥には常に深淵を覗き込む者だけが宿す、昏く熱っぽい光がぎらついていた。
身にまとった衣は書庫の湿気と自らの冷や汗で常にじっとりと濡れそぼり、そこからはあの忘れようとしても忘れられない、川底の泥のような匂いが微かに立ち上っていた。
彼はもはや、自分がこの高野山の書庫の中にいるのか、それとも自分が読み解いてきた記録の中の水底を永遠に彷徨っているのか、その境界さえ曖昧になり始めていた。
彼の見る世界は常に水膜がかかったようにぼんやりと滲み、耳の奥では絶えずあの「ぽちゃん」という粘り気のある水音が、心臓の鼓動と重なるように響き続けていた。
だが、それでも。
彼の魂の最後の芯は、まだ燃え尽きてはいなかった。
最後の謎。最後の法則性。
それさえ解き明かせば、この何百年も続いた呪いの連鎖を断ち切れるはずだという狂気にも似た執念だけが、彼を辛うじてこの世に繋ぎとめていた。
彼は最後の力を振り絞るように、よろめきながら文机へと戻った。
そして床に散らばる無数の記録の中から二つの巻物を、まるで聖遺物でも扱うかのように震える手で拾い上げる。
一つは、最も古い江戸期の記録の一つ。【竹内光忠水難死顕現記録】。
もう一つは、最も新しい令和の記録の一つ。【佐伯美月合同葬送記録】。
彼はその二つの時代の、あまりに隔たった「敗北」を机の上に並べ、蝋燭の揺らめく光の下で比較を始めた。
江戸の武士と、令和の大学生。
その死の状況も怪異の現れ方も全く違う。
片や武士の無念が川そのものと一体化する、土地の祟りに近い古風な怨霊譚。
片や若者たちの好奇心がSNSという現代のツールを介して拡散していく、陰湿で複合的な呪詛。
性質は変化している。時代に適応し、進化している。
それはすでに彼が突き止めたことだ。
だが、その変化の奥にある変わらない「核」は何だ?
『雨濡』がその宿主として人間を選ぶ、その絶対的な法則とは一体何なのだ?
彼は朦朧とする意識の中でその二つの記録を何度も、何度も読み返した。
そして、その視線は記録に記された怪異そのものではなく、その怪異に巻き込まれた「人間」たちの内面へと深く、深く潜っていった。
竹内光忠。彼はなぜ濁流に飲まれたのか。
民を救おうとする、武士としての「使命感」からだった。
佐伯美月たち。彼らはなぜあの廃寺を訪れたのか。
神隠し村の伝説を解き明かしたいという民俗学徒としての「探求心」と、肝試しという「好奇心」からだった。
その二つの記録の横に、彼はさらに二つの記録の写しを並べた。
【久坂理人葬送怪異記録】。民俗学者、久坂理人。彼もまた、この記録の謎を「解明」しようとした自分と同じ「探求者」だった。
【橘宗一器物溺死記録】。古物商、橘宗一。彼はこの記録を呪物として「商品化」しようとした。彼の動機は純粋な「欲望」だった。
その四つの記録を並べた時、快の脳裏を稲妻のような閃きが貫いた。
それは、あまりにも恐ろしく、そして、あまりにも単純な一つの結論だった。
『雨濡』は、特定の「感情」に強く引き寄せられ、活性化するのだ。
だが、それは「悲しみ」や「恐怖」といった受動的な感情ではない。
愛する者を失った遺族の悲嘆や、怪異を目の当たりにした者の純粋な恐怖は、呪いの潤滑油にはなってもその核にはなり得ない。
『雨濡』が最も好む餌。
それは、もっと能動的で、不純な感情。
故人の死を、純粋に悼むのではない。
その死の異常性を「探究」しようとする、知的傲慢。
その死の物語を「消費」しようとする、野次馬的な好奇心。
その死にまつわる呪物を「利用」しようとする、際限のない欲望。
民俗学者の久坂理人。古物商の橘宗一。そして、肝試し気分で禁忌に触れた大学生、佐伯美月たち。
彼らは皆、純粋な弔意ではなくそれぞれの「探求心」と「欲望」によって自ら深淵を覗き込み、そしてその深淵から覗き返され、水底へと引きずり込まれたのだ。
その、戦慄すべき結論に至った瞬間。
快は、絶望に打ちのめされた。
全身の力が、抜け落ちていく。
自分もまた、同じではないか。
師の「戦うな」という最後の教えに背き、この呪いを「解明」し「分析」し、そして「浄化」しようという、ある種のあまりに傲慢な探求心に突き動かされている。
自分こそが、この呪いが何百年もの間、待ち望んでいた最高の「餌」だったのだ。
その自己認識が、最後の引き金となった。
ぎしり。
書庫の壁一面に並んだ数えきれないほどの桐の箱が、まるで一つの巨大な生き物であるかのように、一斉に軋む音を立て始めた。
それは古い木材が立てる音ではなかった。
何百という棺の蓋が内側からの圧力でゆっくりと持ち上がっていくような、冒涜的な音だった。
じわり。
箱と棚の、その僅かな隙間から黒く濁った水が汗のように滲み出し始めた。
それは一滴、また一滴と重力に従って流れ落ち、やがて細い黒い滝のように棚の表面を伝って床へと滴り落ちていく。
一つではない。書庫の壁という壁から無数の黒い滝が生まれ、それらはまるで血管のように床の上で一つに合流していく。
書庫の石の床は、みるみるうちにその黒い水のプールへと変わっていった。
足元から這い上がってくる氷のような冷たさ。そして、鼻をつくあの川底の腐臭。
快は、その場に立ち尽くしたまま動けなかった。
ただ、足元に広がり続けるその黒い水たまりを呆然と見下ろしていた。
水面は蝋燭の頼りない光を反射して、まるで黒い鏡のように彼の顔を映し出していた。
憔悴しきり、恐怖と絶望に歪んだ彼自身の顔。
だが、水面に映るその顔はゆっくりとその輪郭を失い始めた。
水面が波紋を広げる。
そして、そこに映し出されたのはもはや彼自身の顔ではなかった。
水にふやけ、白く膨れ上がった竹内光忠の顔。
虚ろな目でこちらを見上げる、佐伯美月の顔。
金と骨董品にまみれて溺れた、橘宗一の顔。
都市の地下で水底の闇に溶けていった、久坂理人の顔。
無数の死者たちの顔が次々と入れ替わり立ち替わり現れる、おぞましい万華鏡。
そして最後に。
そこに、ぴたりと映し出されたのは。
恐怖に歪み、完全に正気を失い、そしてゆっくりと水に沈んでいく、彼自身の、溺死体の顔だった。
水面に映る「それ」が、にたり、と笑った。
そして、水面から本物の手であるかのように、その青白く膨れ上がった手が彼に向かって、ゆっくりと伸ばされてくる。
快の口から、もはや声にならない、ただひきつった空気の漏れる音だけが迸った。
彼はその場に、崩れ落ちた。
彼の精神が、完全に砕け散った、その瞬間だった。




