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秘匿葬送記録  作者: 月影 朔


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第四十六話:記録者の同調(シンクロ)

 書庫の最も暗い隅から響いた、あの粘り気のある「ぽちゃん」という音。

それは遠山快の狂気じみた探求における、新たな段階の始まりを告げるゴングだった。


 「水脈」という恐るべき法則性を発見した彼は、もはやこの石造りの書庫を支配する恐怖に怯えるだけの存在ではなかった。

彼は自らの魂を呪いを解剖するためのメスとして、ためらいなくその深淵へと突き立てていた。


 彼はもはや、単なる読者や研究者ではない。

巻物を一枚めくるごとに、そこに記された絶望の記録と彼の精神は、より深く、より冒涜的な形で共鳴し始めた。


 彼は、記録を記した名もなき僧侶たちの最後の瞬間に、その五感ごと「同調シンクロ」していくようになっていたのだ。


 【吉田徳三集落沈黙記録】。

昭和四十五年、山梨の山村を襲った「無音」の怪異。

快がその湿った巻物を広げ、参列者たちの生気が失われていく場面に差し掛かった、その瞬間だった。


 ふっ、と蝋燭の炎が揺れる微かな音さえもが、彼の耳から消えた。

自分の衣が擦れる音も、荒い呼吸の音も、激しく脈打つ心臓の鼓動さえも。

書庫の全ての音が、まるで分厚い壁の向こう側へと追いやられたかのように、完全な静寂が彼を支配した。


 それは静けさなどという生易しいものではない。

音が存在するという概念そのものが、彼の世界から完全に消失したのだ。


 絶対的な真空に放り込まれたかのような耐え難い圧迫感。

彼は声を出そうとしたが、喉が動くだけで音は生まれない。

自分がこの世から切り離されてしまったという根源的な恐怖が、彼の精神を内側から食い破ろうとした。


 そして数秒後、まるで鼓膜が破れるかのような衝撃と共に、全ての音が暴力的なまでの勢いで彼の耳へと帰ってきた。

蝋燭の爆ぜる音、自分の悲鳴のような呼吸音、そして書庫の隅で絶えず響いている、あの「ぽちゃん」という水音。

音の洪水に、彼はその場で嘔吐した。


 【篠原家焼却異聞記録】。

昭和五十八年、水泳指導員だった女性が火葬の最中に見せた水の怪異。

快がその記録を手に、焼却炉の中で水が煮立つ音がしたという一節を読んだ時、彼の身体に異変が起きた。


 書庫の中は高野山の夜気と石壁のせいで氷のように冷え切っている。

だというのに、彼の皮膚だけが内側から燃え盛るかのような熱を帯び始めたのだ。


 それは炎に直接炙られるような単純な熱さではない。

熱湯をかけられ、皮膚がじゅくりと爛れていくような、湿った耐え難い熱。

そして同時に、彼の鼻腔を、あの記録には記されていなかったあまりに生々しい匂いが襲った。


 甘く、焦げ付くような匂い。

それは、濡れた肉が焼ける匂いだった。

強烈な吐き気が胃の腑から込み上げてくる。彼は再び、胃液しか残っていない胃の内容物を床の巻物の写しの上にぶちまけた。


 【橘宗一器物溺死記録】。

令和の時代、金沢の古物商を襲った、物に宿る水の呪い。

快がそのまだ新しい巻物に触れ、若い僧侶・了慶が記した、棺の中から陶器の砕ける音がしたという場面に目を走らせた、その時。


 彼の指先に、ガラスの破片を突き立てられたかのような鋭い激痛が走った。


「ぐっ……!」


 思わず声が漏れ、彼は巻物を取り落とした。

彼が手にしていたはずの柔らかく湿った和紙が、その瞬間だけ鋭利な陶器の破片へと変質したのだ。

彼は恐る恐る自分の指先を見た。だが、そこに傷一つない。出血もしていない。

しかし、神経を直接引き裂かれるような幻の痛みだけが、生々しく、そして確かにそこにあった。


 五感を苛まれながらも、快の探求は止まらない。いや、むしろ加速していった。

彼の精神は、その身を削ることでしか得られない呪いの核心へと近づきつつあった。

彼はこれらの断片的な苦痛の体験を壁に貼った巨大な日本地図の横に、狂ったように書き連ねていった。


 そして、その膨大な絶望のデータの中から、彼は「雨濡」の、時代による性質の変化を突き止めたのだ。


 江戸期の記録。

そこにあるのは天災や土地神の祟りに近い、自然そのものが持つ抗いようのない暴力としての怪異が中心だ。


 だが、時代が下り、明治、大-正、昭和と人の「業」が深くなるにつれて怪異はその性質を変えていく。

より個人的な「執着」や「憎悪」と結びつき、その様相は陰湿さを増していく。


 そして、平成、令和。

呪いはその伝播の方法を劇的に進化させていた。

SNSやスマートフォンといったデジタル媒体を新たな「水路」として利用し、その伝播速度と範囲を爆発的に広げている。


「……進化、しているのか。あるいは、適応しているのか……」


 快は血走った目でその結論を書き殴った。

彼の姿はもはや求道者のそれではない。目は落ち窪み、頬はこけ、身にまとった衣は書庫の湿気と自らの冷や汗で常にじっとりと濡れていた。

その姿は、何かに取り憑かれた一人の狂人そのものだった。


 その頃には、彼の見る幻覚もまた単なる断片的なイメージではなくなっていた。

彼は眠ることを完全に放棄した。

眠れば、あの記録の深淵に完全に引きずり込まれてしまうことを本能で理解していたからだ。

だが、眠りを拒絶しても呪いは彼の疲弊した精神の隙間から容赦なく侵入してきた。


 座禅を組み、目を閉じると、彼の意識は高野山の聖域から一瞬にしてあの高知の濁流の中へと引きずり込まれるのだ。


 四万十川の水底。


 ごぼり、と肺から最後の空気が漏れる。

全身を押し潰さんばかりの水圧。骨まで凍てつく冷たさ。

そして、水底の泥の中からにゅるりと伸びてくる、無数の冷たい手。

あの佐伯美月たちが見た、最後の悪夢。

その手首を掴まれる肉の感触。水底へと引きずり込まれていく絶対的な絶望。

彼はそれを、克明に、何度も、何度も、追体験していた。


「はっ……!はっ……!」


 悪夢から逃れるように目を開けても、そこはやはり蝋燭の光だけが揺れる冷たい石の書庫。

そして彼の耳には、絶えずあの「ぽちゃん」という粘り気のある水音が響き続けていた。


 そして、ある夜。

何日も眠らず思考と幻覚の狭間を彷徨い続けていた彼の脳が、ついに全ての記録に共通する、最後の、そして最も致命的な「音」のパターンを発見した。


 それは、あまりに単純で、しかし、あまりに重要な法則性だった。


 全ての記録において、怪異が本格化し物理的な現象として顕現する、その直前。

必ず、記録者である僧侶が、「不自然な水滴の音」を耳にしていること。


 【藤野家「写真の目」怪異報告】の、夜伽に響いた「ポタリ、ポタリ」という音。

【斉藤家水葬記録】の、通夜に響いた「ポタ、ポタ」という音。

そして、自分自身がこの書庫で最初に記録を開封した瞬間に聞いた、あの「ぽつん」という音。


 あれは、単なる幻聴や偶然の物音などではなかった。

それは、呪いの「前兆」であり、「呼び声」なのだ。

『雨濡』が、その儀式の場に、その人間に、狙いを定めたという最初の合図。


「……そうか……。

そうだったのか……」


 快は、その戦慄すべき法則性を震える手で机の上に広げたノートへと書き留めた。


 全ての点が、線で繋がった。

全ての謎が、解けた。


 その高揚感が、彼の疲弊しきった身体を貫いた、まさに、その瞬間だった。


 ぴちょん。


 彼の背後。

固く重い閂で、内側から完全に閉ざされたはずの、あの石の扉。

その、すぐ向こう側の廊下から。


 これまで彼が聞いてきた全ての幻聴を嘲笑うかのような。

ひときわ大きく、粘り気のある、そしてあまりに明瞭な、現実の水音が、響き渡った。


 快の動きが、凍りついた。

彼はゆっくりと、ぎ、ぎ、と錆びついたブリキの人形のように、その音がした扉の方を振り返った。


 扉の向こう側で、「何か」が、彼の発見に応えたのだ。


 そして、彼を、呼びに来たのだ。

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