第四十五話:水脈の地図
あの、一度きりの硬質な水音。
書庫の絶対的な静寂の中に響き渡った「ぽつん」という音は、遠山快の背筋に氷の杭を打ち込んだ。
だが、彼の凍りついた時間はわずか数秒で終わりを告げた。
彼はかぶりを振った。
そして、まるで自分に言い聞かせるかのように、声に出さず唇だけでこう動かした。
「――幻聴だ」
そうだ。深淵を覗き込み始めた精神が自ら生み出した恐怖の残響。
そうに違いない。そうでなければならない。
ここで恐怖に足を取られてしまえば、師と同じ道を辿るだけだ。
彼はその冷たい余韻を燃え盛る意志の力で無理やり焼き切ると、目の前のまだ開ききっていない【久坂理人葬送怪異記録】へと、再び意識を集中させた。
その日を境に、遠山快の狂気じみた探求は始まった。
彼はまず、寺の本堂と庫裏から最低限の食料と寝具、そして大量の蝋燭を運び込むと、あの石造りの書庫の扉を内側から厳重に閂で閉ざした。
外界との接触を完全に断ったのだ。
この膨大な「敗北の記録」を全て解き明かすまで、ここから一歩も出るつもりはなかった。
彼はこの石の墓所を、呪いを解剖するための自らの研究室へと変貌させた。
書庫のどこかから時折聞こえてくるようになった「ぽつん」「ぴちょん」という微かな水音。
快はそれを自らの精神が深淵に適応し始めたことによる副作用だと断じ、意識的に無視を決め込んだ。
彼の心はもはや恐怖ではなく、この巨大な謎を解き明かさんとする狂気にも似た探求心に支配されていた。
壁一面を埋め尽くす千を超える桐の箱。
快はその全てを一つ一つ、棚から床へと降ろし始めた。
途方もない肉体労働だった。だが、彼の動きに迷いはない。
彼はまず、箱に記された年代に基づき膨大な記録を時代ごとに分類していった。
「江戸」「明治」「大正」「昭和」「平成」、そして「令和」。
床に並べられた桐の箱の群れは、さながらこの国がひた隠しにしてきた呪いの地層のようだった。
次に彼は、記録が発生した都道府県ごとにさらに細かく分類していく。
北は北海道から南は沖縄まで。
日本全国、津々浦々にまでこの呪いの根が張り巡らされているという事実が、彼の目の前に無言のまま積み上げられていった。
蝋燭の光だけが揺らめく石の書庫。散乱する巻物。書き殴られたメモの山。
快は時間という概念を完全に失っていた。
空腹を感じれば乾パンを齧り、喉が渇けば水筒の水を飲む。
眠気が意識を奪おうとすれば、錐で自らの腿を刺すかのような気迫でそれをねじ伏せた。
寝食を忘れ、ただひたすらに記録を読み解くうち、彼の脳はこの混沌とした絶望のデータの中から、いくつかの明確なパターンを抽出し始めた。
第一に、怪異の発生時期だ。
多くの、あまりに多くの怪異が、梅雨や台風の時期、すなわち「雨季」に集中して発生している。
第二に、その引き金となる故人の「状態」。
単なる「溺死」や「水難死」だけではない。
誰にも看取られなかった強い孤独。肉体の欠損への執着。自殺に至るまでの計り知れない恐怖。
故人が抱える、常軌を逸した「強い未練」。
それこそが、この怪異を呼び覚ます共通の鍵なのだ。
快はその二つの法則を震える手で和紙に書き記した。
そして彼はさらにその分類を細分化していく。
媒介となった遺品。怪異が集中した場所。
だが、読解が進むにつれて彼の精神は確実に汚染されていった。
それはゆっくりと、しかし確実に彼の魂に染み込んでくる冷たい水のようだった。
【村上藩幼子水死記録】を読み解いている時には、書庫の暗がりから少女の「さむい、いやじゃ」というくぐもったむせび泣きが聞こえてくる。
【竹内光忠水難死顕現記録】の場面では、川の水が岩に叩きつけられる轟音が、彼の耳鳴りとなって鳴り響いた。
【佐伯美月合同葬送記録】に至っては、巻物を読んでいない時でさえ、目を閉じれば棺の隙間から黒い泥水が溢れ出す光景が、フラッシュバックのように彼の脳裏をよぎった。
「……疲労だ」
快は、そのおぞましい幻覚と幻聴を極度の集中と寝不足による単なる疲労だと自身に言い聞かせた。
彼の強靭な精神力と崇高な目的意識が、かろうじて彼の正気の輪郭を保たせていた。
彼は自らの精神が悲鳴を上げていることには気づかないふりをして、その狂気じみた研究をさらに先へと進めていった。
そして、分類と分析の最終段階へ。
快は書庫に運び込んでいた荷物の中から一枚の巨大な日本地図を取り出すと、それを比較的平らな石の壁に貼り付けた。
そして、硯で丁寧に墨を磨ると静かに筆を執った。
彼は分類し終えた全ての記録を一つ一つ手に取り、その発生地点を地図の上に、赤い墨で一つの「点」として記し始めた。
北海道、青森、宮城、福島……。
東京、神奈川、静岡、千葉……。
新潟、石川、岐阜、京都、広島、福岡、沖縄……。
一つの点を記すたびに、その記録に記された無数の死者たちの無念が、赤い墨を通して彼の腕を駆け上り魂にまで染み込んでくるようだった。
それでも彼は手を止めない。
千を超える赤い点が、やがて日本列島の全体像をおぞましい発疹のように埋め尽くしていった。
全ての点を打ち終えた時、快は数歩下がり、その巨大な赤い斑の地図を茫然と見上げた。
そして、彼は気づいた。
ある、恐るべき法則性に。
点は、無作為に散らばっているのではない。
信濃国で発生した【水呼びの怪異】。そこから連なるように岐阜、愛知、静岡へと赤い点はまるで川の流れのように連なっている。
これは木曽川水系の流れとほぼ一致しているではないか。
高知の【佐伯美月合同葬送記録】。その近くには四国山地を源流とする別の赤い点の連なりが、まるで龍の身体のようにのたうっている。
これは四万十川の流れそのものだ。
関東のびっしりと密集した赤い点。それらもまた、利根川や多摩川といった巨大な水系に沿うように、その濃度を増している。
呪いはランダムに発生しているのではない。
この国の地下を、我々の目には見えぬ形で巨大な龍のように縦断する「水脈」。
主要な河川、そしてそれに連なる地下水の流れ。
それに沿って、呪いは「伝播」しているのではないか──。
その戦慄すべき仮説が、稲妻のように彼の脳を貫いた、まさに、その瞬間だった。
ぽちゃん。
書庫の最も暗く、蝋燭の光さえ届かない隅の方から。
これまで彼が幻聴だと無視し続けてきた微かな水音とは明らかに違う。
何かが、粘り気のある水面に重さを持って落ちたかのような。
より大きく、そしてあまりに明瞭な、現実の音が響き渡った。
快は筆を握りしめたまま凍りついた。
そして、その音がした書庫の闇を、恐怖と、自らの仮説が正しかったことへの狂気じみた高揚感が入り混じった血走った目で見つめた。
闇の向こう側で、「何か」が、彼の発見に応えたのだ。




