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秘匿葬送記録  作者: 月影 朔


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第四十四話:最初の開封

 石造りの書庫の重い扉が、再び彼の背後でゆっくりと閉じていく。

ゴゴゴゴ……という地面を擦る鈍い音が止むと、遠山快は完全に現世から切り離された。


 蝋燭の頼りない光だけが、壁一面を埋め尽くす無数の桐の箱を、墓標のようにぼんやりと照らし出している。

古い紙と墨、そして淀んだ水の腐臭が混じり合った濃密な空気が、彼の肺を満たした。


 だが、もうためらいはない。

彼の心は凍てついた湖面のように静まり返り、その水面下では怒りという名の青い炎が燃え盛っていた。


「敵を知るには、まずその全てを知らねばならない」


 快は誰に言うでもなく静かに呟いた。

その声は書庫の絶対的な静寂の中に、驚くほどはっきりと響いた。


 師、慈恩の最後の言葉が脳裏をよぎる。

「戦うな」「観測し、記録せよ」。

その言葉はもはや彼を縛る戒めではなかった。

それは、これから自分が踏み破るべき最初の禁忌の印となっていた。


 師よ、俺はあなたの教えに背きます。

だが、これは単なる反逆ではない。

これは、あなたを含むこの記録に名を連ねる全ての犠牲者たちの無念を晴らすための、最初の戦端なのです。


 心の中で師にそう告げると、快はゆっくりとその墓標の林の中へと歩を進めた。


 何百という「敗北の記録」。

そのどれから手を付けるべきか。


 闇雲に読み漁っても、この膨大な情報の海に溺れるだけだ。

系統立てて分析し、法則性を見出さなくてはならない。

彼は僧侶としてではなく、この呪いを解剖する最初の研究者として、この書庫に対峙していた。


 彼はまず、最も古い『江戸期』と記された棚の前で足を止めた。

ここに眠るのは、この呪いの最も原初的な記録のはずだ。

だが、快は静かに首を振った。古い時代の記録は土地神への信仰や当時の因習と深く結びつきすぎている。

法則性を見出すための最初のサンプルとしては、あまりに特殊すぎる。


 次に彼は最も新しい『令和』の棚へと向かった。

そこには【橘宗一器物溺死記録】と【佐伯美月合同葬送記録】の、まだ生々しい気配を放つ二つの巻物が置かれている。

だが、彼はこの二つにも手を伸ばさなかった。

新しすぎる。まだ記録に宿る怨念が、生の感情のまま渦巻いている。

最初に触れるには危険すぎるのだ。下手をすれば読み解く前に、その感情の濁流に精神を呑み込まれてしまう。


 分析のためには、ある程度の時間が経過し、しかし現代的な要素を含む記録が必要だ。

平成期に記録されたものの中から、最も異質な症例を選ぶべきだ。


 快は『平成』と記された棚を蝋燭の光でゆっくりと照らしながら、桐の箱の表に記された事案名を一つ一つ目で追っていった。


 その中で、彼の視線がある一つの箱の上でぴたりと止まった。


 その箱が放つ気配は、他のものとは明らかに異質だった。

他の箱が放つのが湿った土や淀んだ水のような有機的な怨念の匂いだとすれば、その箱から感じるのは、無機質で神経を逆撫でするような冷たい気配だった。

まるで濡れた金属に触れた時のような、静電気じみた微かな痺れを空気を通して感じる。


 快は、その桐の箱をゆっくりと棚から引き出した。

箱の表面には達筆だが、恐怖に引き攣ったかのような筆跡でこう記されていた。


【極秘】秘匿葬送記録:伍拾六ノ巻

事案名:久坂理人葬送怪異記録


 久坂理人。

手引書で読んだその名前を、快は反芻した。

民俗学者。自分と同じ、怪異を探求する側の人間だったはずの男。

彼はこの『秘匿葬送記録』を読み解くうちに、自らが記録の一部となってしまった。

そしてその最期は、川崎の治水トンネルの奥深くで溺死体として発見されるという、あまりに不可解なものだった。


 これだ、と快は確信した。

この記録こそが、最初に解剖すべきサンプルだ。


 故人が自分と同じ「探求者」であるという点。

そして何より、その葬儀で起きた怪異が極めて現代的な様相を呈しているという点。

参列者全員のスマートフォンに故人が死んだ場所の映像が映し出される。

斎場のスプリンクラーが誤作動を起こし大量の水を散布し始める。


 『雨濡』が現代のテクノロジーを新たな「水路」として利用し始めた、最初の、そして最も象徴的な記録。

この呪いがこれからどのように進化し伝播していくのか。

その法則性を解明するための最も重要な鍵が、この記録には隠されているはずだ。


 快は師の「決して戦うな」という言葉を、そして「記録は武器ではない」という最後の教えを、脳裏から完全に振り払った。

彼はこの桐の箱を両手で静かに持ち上げる。

その行為は彼にとって、師の遺言を破り禁忌の領域へと足を踏み入れる、後戻りのできない儀式だった。


 箱はひやりと冷たい。そして見た目以上に、ずしりと重かった。


 彼は書庫の中央に据えられた古い文机の上に、その箱を厳かに置いた。

そして、ゆっくりとその蓋に手をかける。


 ぎ、と湿った木が軋む微かな音がした。

蓋を開けると、中から古い和紙と墨の匂いに混じって、あの無機質な匂いがより強く立ち上ってきた。

古い電化製品がショートした時に放つオゾンのような匂い。

そしてその奥に、やはりあの澱んだ水の腐臭がまとわりつくように潜んでいた。


 箱の中には、一巻の巻物が静かに横たわっていた。


 快は息を呑んだ。

その巻物の和紙は、他の記録と比べて明らかに異質だった。

紙全体が、まるで油を引いたかのようにぬらりとした鈍い光沢を帯びている。

そして、尋常ではないほど湿っていた。

まるで数時間前まで水の中に沈んでいたかのようだ。


 彼は震える指先でその湿った巻物をそっと箱から取り出した。

ずしりとした重みが彼の両手にのしかかる。

紙というよりは、水をたっぷりと吸った重い布のようだ。


 彼はその巻物を文机の上に広げられた清浄な布の上に、ゆっくりと置いた。

そして、その表題に記された文字を蝋燭の光の下でもう一度確認する。


【久坂理人葬送怪異記録】


 快は一度固く目を閉じた。

そして、ゆっくりと深く息を吸い込む。

これから自分がしようとしていることは師への裏切りであり、墓守としての掟を破る破戒の行だ。

だが、この先に何百年も続いた絶望の連鎖を断ち切るための唯一の道があると、彼は信じていた。


 彼は目を開けた。

その瞳には、もはや一片の迷いもなかった。

彼はその湿った巻物の濃紺の真田紐にゆっくりと指をかけた。

そして、それを解き巻物の端を両手で掴んだ。


 さあ……。


 古く湿った和紙が擦れる、微かな、しかし乾いた音が書庫の絶対的な静寂を初めて破った。

快は、その巻物を一ミリ、また一ミリと、ゆっくりと広げ始める。


 その、瞬間だった。


 ぽつん。


 書庫の重い石の扉の、その向こう側。

これまでただの静寂と闇だけが広がっていたはずの寺の廊下から。


 一度だけ。


 微かだが硬質で、そして明瞭な、水滴が床石に落ちる音が響き渡った。


 快は巻物を広げかけたまま、その場で凍りついた。

全身の毛が逆立つ。


 幻聴ではない。

それは、あまりに物理的で現実的な音だった。


 書庫の静寂の中に、その一度きりの水音が残した冷たい余韻だけが、いつまでも、いつまでも響き続けていた。


 何かが、始まったのだ。

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