第四十三話:若き僧侶の誓い
あの石造りの書庫から自室へと戻った遠山快は、夜が白み始めるまでの間、蝋燭の頼りない光の下でただ座禅を組んでいた。
だが彼の心は静寂とは程遠い場所にあった。
瞼を閉じれば、壁一面を埋め尽くす桐の箱の群れが浮かび上がる。
一つ一つの箱が声なき声で、何百年にもわたって積み重ねられてきた絶望と無念を訴えかけてくるようだった。
【橘宗一器物溺死記録】、【佐伯美月合同葬送記録】。
あの二つの、まだ生々しい気配を放つ巻物に触れた時の感触が、指先にこびりついて離れない。
陶器の破片のような鋭い冷たさと、水中で助けを求める若者たちの熱を持った絶望。
あれは単なる記録ではない。
あれは、今もなお続いている苦しみの、生々しい傷口そのものだ。
夜が明けると、快は師、慈恩が遺した数少ない私物を整理し始めた。
そのほとんどは着古した衣と擦り切れた経文だけ。
だが、枕元に置かれていた小さな文箱の中に、彼は一冊のひときわ分厚い和綴じの書物を見つけた。
表紙には何も書かれていない。
だが、その紙に染み込んだ師の手の匂いと、あの書庫の昏い空気の匂いが、これが何であるかを雄弁に物語っていた。
快は、その書物を文机の上で厳かに開いた。
それは個別の詳細な記録ではなかった。
師が生涯をかけて膨大な記録を整理し、その概要と索引だけをまとめた、いわば「墓守」のためだけの手引書だった。
几帳面だが長年の疲労が滲み出た師の筆跡で、そこにはおぞましい怪異の歴史が淡々と、しかし克明に刻み込まれていた。
最初の頁をめくった瞬間から、快は呼吸を忘れた。
そこは人知れず繰り返されてきた敗北の歴史を綴った、巨大な墓碑銘だった。
【享保年間、出羽国。山村にて発生した『音喰らい』の怪異】
概要:葬儀の最中、集落全体が完全な無音状態となる。担当僧侶、龍心は読経の声さえも空気に吸い取られる中で、参列者が生気を失い一点を見つめ続ける異変を目撃。彼は己の精神を保つため経文を唱え続けようとするが、やがて自らの声さえも聞こえなくなる恐怖に発狂。
記録の末尾には、別の僧侶の筆跡でこう追記されていた。
「――龍心師、三日後、寺の裏山にて自ら舌を噛み切り絶命せし姿にて発見さる。その顔には、安堵の笑みが浮かびてありし、と」
【明治二十年、信濃国。水難死した元藩士の葬儀における『水呼び』の怪異】
概要:大雨の中、葬儀を執り行った僧侶、玄海は本堂が原因不明の浸水に見舞われる怪に遭遇。棺からは絶えず泥水が溢れ出し、参列者たちは水底にいるかのような幻覚に苛まれた。玄海師は破邪の法を尽くしてこれを鎮めようと試みたが力及ばず。
後日、寺の境内にある清浄なはずの井戸の水が恒久的に黒く濁り、川底の泥の匂いを放つようになった。この井戸は今なお『不浄井戸』として固く封印されている。
【昭和五十八年、東京都。孤独死した老人の部屋に残された『無数の手形』】
概要:担当僧侶、古林はゴミ屋敷と化した部屋で供養を行う。壁には子供のものと思われる無数の小さな手形が付着しており、読経を始めると部屋の奥から複数の囁き声が響き彼の精神を蝕んだ。
彼は最後まで供養をやり遂げたが数年後、原因不明の精神の病を発症。最期は自室の壁一面に己の血で無数の小さな手形を描き殴りながら息絶えたという。
【平成二十七年、神奈川県。若手僧侶、清水晃の不詳死】
概要:十年前、死因不明の幼子の葬儀で怪異を経験した清水僧侶が、蓮華寺の自室にて死因不明の遺体で発見される。彼の葬儀では十年前の幼子の葬儀と全く同じ怪異が再発。
彼の死は、怪異が時間を超え特定の個人に執着し確実にその命を奪うという『呪いの伝播』の実例として記録された。
次から次へと、快は頁をめくった。
そこに記されていたのは単なる怪異の羅列ではなかった。
それは、この呪いに触れてしまったがために命を落とし、心を壊され、あるいは生涯消えることのない恐怖を植え付けられた、無数の僧侶たちの無念の叫びだった。
発狂した者、自死を選んだ者、怪異に引きずり込まれるように死んだ者、そして生き残りながらも廃人同様になった者。
その一人一人の短い記述の行間から、彼らの血の滲むような苦痛と絶望が生々しく伝わってきた。
「戦うな」
師、慈恩の最後の言葉が再び快の脳裏に木霊する。
だが、このおぞましい犠牲者のリストを前にして、その言葉はもはや賢者の戒めには聞こえなかった。
それは敗北に次ぐ敗北を重ね、心が折れ、ただ深淵を覗き込むことしかできなくなった一人の老人の、悲痛な諦観の言葉に過ぎなかった。
快の心の中に、静かだが溶岩のように熱い感情がゆっくりと湧き上がってくるのを感じた。
それは悲しみではなかった。恐怖でもなかった。
怒りだ。
龍心師の無念に対する怒り。玄海師の苦しみに対する怒り。古林師、清水師、そしてこの手引書に名を連ねる全ての犠牲者たちの無力さに対する、燃えるような怒りだった。
なぜだ。
なぜ、ただ記録するだけなのか。
これだけの犠牲の上に、なぜ我々はただ次の犠牲者が生まれるのを待っているだけなのか。
師は言った。『雨濡』は戦って勝てる相手ではない、と。
あれはこの国の水そのものに宿る澱み、人の死の悲しみが溜まりに溜まって意思を持った沼なのだ、と。
沼と戦ってどうする。そう師は言った。
だが。
沼があるのなら、それを埋め立てる方法があるはずだ。
澱みがあるのなら、それを浄化する道があるはずだ。
何百年もただ敗北を記録し続けてきたというのなら、その膨大なデータの中に、必ず、必ず奴の弱点や法則性が隠されているはずではないのか。
「……師匠」
快は誰に言うでもなく呟いた。
「俺は、あなたのようにはなれない」
彼は分厚い手引書を、ばたん、と音を立てて閉じた。
そして静かに立ち上がり、再びあの禁断の書庫へと向かった。
彼の顔から迷いは完全に消え失せていた。
その若く力強い瞳は、もはや理想に燃えるだけの子供の目ではなかった。
それは何百人という同胞たちの無念をその両肩に背負い、自らがその連鎖を断ち切るための最初の刃となることを決意した、一人の戦士の目だった。
彼は、この呪われた蔵書をただ継承するだけの「墓守」になるつもりはない。
彼は、この蔵書を武器に変え、この呪いの連鎖を、自らの代で終わらせる。
快は石造りの書庫の重い扉を再びゆっくりと開いた。
ひやりとした腐臭が、彼の決意を試すかのように頬を撫でる。
だが、彼はもうためらわない。
彼はこの膨大な「敗北の記録」の全てを読み解き、分析し、その中から勝利への唯一の道をこじ開けるのだ。
彼の心は、固く、そして冷たく、決まっていた。




