第四十一話:奥の院の墓守
高野山。
千二百年にわたり無数の祈りと死者の魂を受け入れてきた聖域。その最も奥深く。
一般の参拝者が決して足を踏み入れることのない、杉の巨木と深い苔に閉ざされた一角に、その小さな寺はあった。
寺の名は遍照院。
だが、その名を知る者はごく僅か。
記録を管理するネットワークの中では、ただ畏敬と畏怖の念を込めて「蔵」とだけ呼ばれていた。
その寺の一室。
若い僧侶、遠山快は病床に伏す師、慈恩の身体を濡れた手ぬぐいでゆっくりと拭っていた。
「……快よ」
慈恩のか細い声が静寂を破った。
その声は古い和紙が擦れ合うかのように乾ききっていた。
「……はい、師匠」
快は手を止め、師の顔を覗き込んだ。
慈恩は九十を超えていた。
その顔はもはや生きた人間のそれというよりは、長い年月をかけて風雨に晒された石仏のようだった。
皮膚は乾いた川底のようにひび割れ、深く刻まれた皺の一本一本に、言葉にできぬほどの疲労と諦念が刻み込まれている。
この男こそが『秘匿葬送記録』の最も膨大なコレクションを生涯かけて管理してきた「墓守」だった。
彼は人生の大半をこの山深い寺で、人知れず日本各地から送られてくる絶望の記録をただ受け取り、書庫に納めるという作業だけに費やしてきたのだ。
「……わしの時は、もう近い」
慈恩の瞳は虚ろだった。
だが、その奥には長年深淵を覗き込んできた者だけが持つ、昏く重い光が宿っていた。
「……わかっております」
快は静かに答えた。
彼の若く力強い声と、師の死にゆく老人の声の対比があまりに残酷だった。
快は慈恩の唯一の弟子だった。
物心ついた時からこの寺で育ち、この寺が担う常軌を逸した役割についても師から少しずつ教えられてきた。
彼はまだ、あの禁断の書庫へと足を踏み入れたことはない。
だが、師の口から語られる断片的な怪異の物語と、それを語る時の師の絶望に満ちた表情だけで、彼が生涯かけて守ってきたものがどれほどおぞましいものであるかは痛いほど理解していた。
「……快よ」
慈恩が再び囁いた。
骨と皮だけになった手がゆっくりと持ち上がり、快の若く逞しい腕を掴んだ。
その力は死を目前にした老人とは思えないほど強く、そして冷たかった。
「……よく聞け。
わしの最後の教えじゃ」
快は背筋を伸ばし、師の言葉を待った。
「わしが逝った後、おぬしが次の『墓守』となる。
あの書庫と、そこに眠る全ての記録はおぬしに託される」
「……はい」
「じゃがな、快よ。
決して心得違いをしてはならんぞ」
慈恩の目が一瞬だけ鋭い光を放った。
最後の蝋燭の炎が燃え上がるかのような、激しい光だった。
「あの記録は、決して武器ではない」
その言葉は快の胸の奥底に深く突き刺さった。
武器ではない?
では、一体何なのだ。
あれだけの犠牲と恐怖の記録。
それは、いつか来るべき戦いのための備えではなかったのか。
「あれはな、ただの警告じゃ」
慈恩の声が続く。骨張った指が快の腕に食い込んでいく。
「我々にできることはただ三つだけじゃ。
──観測し、記録し、そしてネットワークの同胞たちに新たな症例として警告を発する。
それだけじゃ。
それ以上は決してしてはならん」
「ですが、師匠!」
快は思わず声を荒らげた。
「それでは、ただ犠牲者が増えるのを待っているだけではありませんか!
いつか誰かがこの連鎖を断ち切らなければ……!」
「愚か者めが!」
慈恩の声が激しさを増す。
「戦おうなどと思うな。
あれは戦って勝てる相手ではない。
『雨濡』は怨霊などという矮小なものではないわ。
あれはこの国の水そのものに宿る澱み。
人の死の悲しみが溜まりに溜まって意思を持った沼じゃ。
沼と戦ってどうする。
戦おうとすればするほど、ただ足を取られ引きずり込まれるだけじゃ」
慈恩は、ぜい、ぜい、と苦しげに息をした。
彼の生命の灯火は今まさに消えようとしていた。
「……快よ。約束せい。
観測し、記録せよ。
じゃが……決して戦おうと思うな。
あれを浄化できるなどと、決して思うな。
それが墓守の唯一の掟じゃ……」
その言葉を最後に、慈恩の腕から力が抜けた。
彼の手は快の腕から滑り落ち、力なく布団の上へと落ちた。
その瞳から、最後の光が消える。
彼の顔には死の苦しみではなく、ようやくその重い役目から解放されたかのような、穏やかな安堵の表情が浮かんでいた。
快は動けなかった。
師の最後の言葉が、彼の耳の奥で重く響き続けている。
「戦うな」。
それは師がその長い人生の果てにたどり着いた、唯一の答えだったのだろう。
だが。
快は、その答えに納得することはできなかった。
彼は静かに立ち上がると、師の亡骸に深々と一礼した。
そして、その若く、まだ理想に燃える瞳で。
この部屋のさらに奥にある、あの禁断の書庫の扉をじっと見つめた。
師の教えは受け取った。
だが、それに従うかどうかは、また別の話だ。
彼の心の中では、師の死を悼む悲しみと、この呪いに対する静かな怒りの炎が、同時に燃え上がっていた。




