第三十四話:伝播する恐怖
拓也の死は一つの楔だった。
佐伯美月たち四人の壊れかけた日常に、深く、そして決定的に打ち込まれた冷たい鉄の楔。
それは彼らがこれまで必死に目を逸らし続けてきた「死」という絶対的な現実を、彼らのすぐ目の前に突きつけた。
悪夢ではない。幻覚でもない。デジタルの嫌がらせでもない。
仲間が死んだ。 あの呪いのせいで。
その紛れもない事実が、彼らの精神を最後の限界点へと追い詰めていった。
拓也の葬儀は、梅雨の晴れ間の蒸し暑い一日に行われた。
残された四人は斎場の別々の隅に、まるで互いを避けるかのようにぽつんと離れて座っていた。
かつての親密な空気はどこにもない。
そこにあるのは重苦しい沈黙と、そして互いの腹の底を探り合うような、猜疑心に満ちた視線だけだった。
葬儀が終わった後、健司が憔悴しきった表情の美月の元へと歩み寄った。
「……美月」
その声に反応したのは、美月ではなかった。
「……なによ」
背後から突き刺すような冷たい声。
由香だった。
彼女の目は泣き腫らしたように赤く、そしてその瞳の奥には美月に対する明確な憎悪の色が浮かんでいた。
「今更どの面下げて美月に声かけてるのよ。
あんたも同罪でしょ。
美月を止められなかった、あんたも」
「由香……!」
「拓也は死んだのよ!
あんたたちのくだらない好奇心のせいで!」
由香のヒステリックな叫び声が、斎場の駐車場に響き渡る。
宏はそんな彼らを遠巻きに、青ざめた顔で見ているだけだった。
一度決壊した堰からは、もはや濁流しか流れ出さない。
彼らは互いを疑い、呪い、そしてなすり付け合った。
恐怖は彼らを団結させるのではなく、完全に分断したのだ。
その日を境に、彼らの精神の崩壊は加速していった。
健司は部屋に引きこもった。
大学にも行かず、ただひたすら自室のドアと窓に鍵をかけ、ガムテープで目張りをし全ての隙間を塞いだ。
彼は「水」がどこからか侵入してくることを極度に恐れていた。
彼は風呂もトイレも我慢し、ただ乾いたパンをかじりペットボトルの水だけで喉を潤した。
由香は自分の部屋にある全ての布という布を切り裂き捨てた。
ベッドのシーツ、カーテン、そして自分の衣服さえも。
それらがあの泥の匂いを含んでいるような気がしてならなかったのだ。
彼女は裸で部屋の隅で膝を抱え、ただぶつぶつと「濡れたくない」と呟き続けていた。
宏は自分のカメラを叩き壊した。
あの廃寺で撮影した全ての写真データが入ったハードディスクを、金槌で粉々になるまで打ち砕いた。
彼はあのレンズを通して見てはならないものを見てしまったのだ。
そしてその「何か」が今もどこかのレンズの向こう側から、自分を覗き見ているという強迫観念に苛まれていた。
そして、佐伯美月。
全ての始まりであった彼女は、自室の湿った暗闇の中でその全ての罪悪感と恐怖を一身に背負い、狂乱の淵を彷徨っていた。
ちゃぷん、ちゃぷん……。
幻聴が止まない。
あの廃寺で聞いた棺の中の水音。
それが四六時中、彼女の耳の奥で響き続けている。
『……美月。
こっちへ来いよ。
こっちの水は、気持ちいいぞ……』
拓也の声が聞こえる。
それは生前の彼の明るい声とは全く違う。
水底から響いてくるような、くぐもった、そしてどこか楽しげな声。
「いや……
いや、いやいやいや!」
美月は両手で強く耳を塞いだ。
しかしその声は耳から聞こえてくるのではない。
彼女の頭蓋の内側から直接響いてくるのだ。
彼女は部屋の中を逃げ惑った。
しかしどこにも逃げ場はない。
この湿ったコンクリートの箱が、彼女の世界の全てだった。
壁紙は水を吸って膨れ上がり、その継ぎ目から黒いカビのようなものがまるで血管のように這い出してきている。
床は歩くたびに「ぬちゃり」と水を吐き出す。
天井からは「ぽつり、ぽつり」と黒く粘り気のある雫が、絶えず滴り落ちていた。
彼女の部屋はもはや部屋ではなかった。
それはあの呪われた巻物の中身が、現実世界に滲み出してきた巨大な培養器だった。
「私のせいだ……」
美月は床に座り、自分の髪をかきむしった。
「私がみんなを……。
私が、あの巻物を読もうなんて言ったから……。
拓也が死んだのは私のせいだ……」
罪悪感が彼女の心を食い破る。
恐怖が彼女の理性を麻痺させていく。
彼女はふと顔を上げた。
そして部屋の隅に置かれた姿見へと、視線を向けた。
そこに映っていたのは、憔悴しきった自分の顔ではなかった。
鏡の中に立っていたのは拓也だった。
あのSNSに投稿された写真と同じ。
青白く膨れ上がった溺死体の姿で。
彼はにたりと笑うと、その水にふやけた手で美月を手招きしていた。
そしてその拓也の背後、鏡の奥深く。
そこには昏く濁った水がどこまでも広がっていた。
そしてその水の中には、無数の人影が水草のように揺らめいている。
「――いやあああああああああっ!」
美月は絶叫した。
彼女は近くにあった椅子を掴むと、その鏡に向かって力任せに叩きつけた。
ガシャアン!
鏡がけたたましい音を立てて砕け散る。
しかしその砕け散った鏡の破片一つ一つに、無数の溺死者たちの虚ろな瞳が映り込み、その全ての瞳が一斉に美月のことを見つめていた。
彼女の狂乱はもはや誰にも止められない。
彼女は呪いの最初の扉を開けてしまった代償として、その呪いの最も深い闇の中心へと、今まさに引きずり込まれようとしていた。




