第三十三話:最初の犠牲者
デジタルというガラス張りの水槽。
その中で佐伯美月たち五人は、ゆっくりと、しかし確実に溺れさせられていった。
彼らの最後の繋がりであったはずの仲間という絆は、疑心暗鬼と相互不信によって腐り、断ち切られていく。
『お前のせいだ』
誰が最初にそう打ち込んだのか、もはや誰も覚えてはいなかった。
しかしその毒を含んだ言葉は、ウイルスのように彼らの間に瞬く間に蔓延した。
美月があの合宿を提案しなければ。
拓也があの仏壇を動かさなければ。
由香がもっと強く反対していれば。
健司が美月を止めていれば。
宏があの写真を撮らなければ。
「たら」「れば」という無意味な、しかしあまりに人間的な責任のなすりつけ合い。
それは彼らがこの理解を超えた恐怖から逃れるための、最後の、そして最も醜い防衛本能だった。
グループチャットはやがて罵詈雑言で埋め尽くされ、そしてある日を境に完全に沈黙した。
彼らは完全に孤立した。
社会から。友人から。そして、仲間から。
一人、また一人と大学の講義に姿を見せなくなった。
ただ、それぞれの湿った暗い自室のコンクリートの箱の中で、終わることのない悪夢と、そして鳴り止まないスマートフォンの通知音に苛まれ続けていた。
その中で最初に限界が訪れたのは、あるいは最初に「呼ばれた」のは、――拓也だった。
あの廃村への冒険に誰よりも胸を躍らせていた、スリルを愛した男。
彼の死が確認されたのは、グループチャットが沈黙してから三日後のことだった。
彼の一人暮らしのマンションの管理人から、警察に通報があったのだ。
「ここのところ、拓也さんの部屋の真下の階の住人から苦情が入っていまして。
天井から水が漏れてくる、と」
警察官が部屋のドアを開けた時、そこに広がっていたのは異様な光景だった。
部屋は水浸しだった。
しかしそれは水道管の破裂などによるものではない。
部屋の全ての蛇口は固く閉められていた。
それなのに床は、くるぶしのあたりまで濁った冷たい水で満たされていたのだ。
そしてその部屋の中央で、拓也は冷たくなって浮いていた。
その顔は彼らのSNSに投稿され続けていた、あの写真と全く同じ。
青白く膨れ上がり、その虚ろな目は天井の一点を見つめていた。
しかし警察が最も首を傾げたのは、その死因と発見場所との矛盾だった。
彼の直接の死因は溺死。
その肺は完全に水で満たされていた。
しかし彼が発見されたのは、彼の部屋ではなかったのだ。
彼はマンションの屋上に設置された巨大な貯水槽の、その中で発見された。
貯水槽の蓋は固くボルトで締められており、成人男性が一人で開けることはまず不可能。
仮に開けられたとしても、自らその暗く冷たい水の中へと入っていく理由がどこにもない。
警察は最終的にこう結論づけた。
「連日の心労により精神に変調をきたした拓也さんが、何らかの理由で屋上に上がり、誤って点検のために開いていた貯水槽に転落した、不幸な事故であろう」と。
彼の部屋を満たしていた大量の水については、貯水槽から溢れ出たものが排水管を逆流したのだろうという、極めて苦しい説明が付け加えられた。
だが、その公式の発表の裏で、現場を検証した一人の若い刑事が、その報告書に奇妙なメモを残していた。
『――被害者の部屋のパソコンは電源が入ったままだった。
画面にはテキストエディタが開かれており、そこにはただ一言、こうタイプされていた。
「水が、呼んでいる」と』
拓也の死は、残された四人の心を完全にへし折った。
それはもはや悪夢でも、デジタルの嫌がらせでもない。
紛れもない「死」という現実が、彼らのすぐ隣にまでやってきたのだ。
次は誰の番なのか。
彼らは互いに連絡を取ることさえできなくなっていた。
仲間が死んだという事実でさえ、もはや彼らの壊れた関係性を修復するには至らない。
それどころかその死は、彼らの疑心暗鬼をさらに加速させた。
『拓也が死んだのは、あいつが最初にあの巻物を見つけたからだ』
『いや、違う。
あいつが一番面白がっていたから、最初に狙われたんだ』
彼らは自分以外の誰かが死んだことに、歪んだ安堵さえ覚えていた。
自分ではなかった。まだ自分は生きている。
その醜い安堵が、彼らの魂をさらに深く暗い水底へと沈めていくことに気づかずに。
恐怖は人間を獣に変える。
そして彼らはもはや、ただ怯えるだけの獣と成り果てていた。
その壊れかけた獣たちの群れの中で、部長であったはずの佐伯美月は、ただ一人自室の湿った暗闇の中で、その全ての罪を一身に背負っていた。
私が、あの合宿を提案しなければ。
私が、あの巻物を読もうと言わなければ。
拓也は死なずに済んだ。
みんな、こんな目に遭わずに済んだ。
罪悪感と恐怖が、彼女の精神をギリギリと締め上げていく。
彼女のスマートフォンはもう鳴らない。
友人たちは皆、去っていった。
サークルの仲間たちももはや、彼女を部長としてではなく、全ての元凶として憎んでいるだろう。
彼女は完全に一人だった。
そしてその孤独な彼女の耳元で、あの声が囁き始めたのだ。
――ちゃぷん、ちゃぷん……。
あの廃寺で聞いた棺の中の水音。
それが幻聴となって彼女の部屋を満たし始める。
そして、その水音に混じって、拓也の声が聞こえる。
『……美月。こっちへ来いよ。
こっちの水は、気持ちいいぞ……』
「――いやあああああっ!」
美月は耳を塞ぎ絶叫した。
しかしその声は湿った壁紙に吸い込まれ、どこにも届かない。
彼女の日常と非日常とを隔てていた最後の薄い壁は、今、完全に崩壊した。
そしてその瓦礫の向こう側から、昏く冷たい濁流が彼女の魂を呑み込みにやってきていた。




