第三十二話:デジタルの染み
共有された悪夢は、彼らの最後の砦を内側から静かに、しかし完全に破壊した。
もはや日常を装うことさえできない。
佐伯美月たち五人は、互いの憔悴しきった顔の中に、毎夜自分が見ているあの水底の絶望の景色を見ていた。
彼らは眠ることを恐れ、夜が来ることを恐れ、そして一人になることを何よりも恐れていた。
彼らを繋いでいたのはもはや友人としての信頼などではない。
ただ「同じ悪夢を見る」という、おぞましい共犯関係だけだった。
彼らは互いに連絡を取り合い、励まし合った。
「昨夜も見たか?」
「ああ、見たよ。お前もか」
「大丈夫だ。俺たちは一人じゃない」
その傷を舐め合うようなか細い連帯感だけが、彼らが狂気の淵から滑り落ちずにいられる唯一の命綱だった。
しかし彼らを蝕む「何か」は、彼らのその最後の繋がりさえも嘲笑うかのように、次なる侵食を開始したのだ。
それは彼らの私的な精神世界から、公的なデジタルの世界へと、その湿った冷たい触手を伸ばしてきた。
その最初の異変に気づいたのは、由香だった。
ある朝、彼女は大学の友人から一件のメッセージを受け取った。
『由香、昨日の夜中にアップしてた写真、見たよ。
すごいね、あれ。
ホラー映画の特殊メイクみたい。どうやって撮ったの?』
「……写真?」
由香には全く身に覚えがなかった。
彼女はここ数日、SNSなど開く気力さえなかったのだから。
彼女は恐る恐る自分のアカウントページを開いた。
そしてそこに表示された一枚の写真を見て、息を呑んだ。
それはあの合宿中に宏が撮影したスナップ写真だった。
廃寺の前で部員五人が並んでピースサインをしている、ありふれた記念写真。
そのはずだった。
だが、そこに写っている五人の顔は。
まるで何日も水の中に沈んでいたかのように、青白くぶよぶよに膨れ上がっていた。
その虚ろな瞳はカメラのレンズではなく、虚空の一点を見つめている。
そして彼らの濡れて肌に張り付いた髪の毛からは、黒い泥水のようなものが滴り落ちていた。
それは彼らが毎夜悪夢の中で見ている、自分たちの溺れ死んだその姿、そのものだった。
「――ひっ……!」
由香は短い悲鳴を上げると、震える指でその写真を削除しようとした。
だが、できない。
削除ボタンが反応しないのだ。
それどころかその写真には、すでに数えきれないほどの「いいね」と、そして「これどうなってるの?」「怖い」「不謹慎だ」という友人たちからの困惑と非難のコメントが殺到していた。
彼女はすぐにサークルのグループチャットに、その異常事態を報告した。
返信はすぐ来た。
拓也から。
『俺のアカウントもだ!』
健司から。
『美月の写真も、同じものが上がってる!』
宏から。
『俺のカメラのデータフォルダには、こんな写真存在しない!』
パニックが伝染していく。
彼らの個人個人の全てのアカウントが何者かに乗っ取られ、同じあの、おぞましい溺死体の集合写真が勝手にアップロードされ続けているのだ。
削除してもすぐにまた同じものが投稿される。
まるで悪質なウイルスのように、その呪われた写真はデジタルという海の中を拡散し続けていく。
友人たちからの連絡が殺到し始めた。
初めは心配する声だった。
『大丈夫か?』
『アカウント、乗っ取られてるんじゃないか?』
しかし彼らが事情を説明しようとしても、その言葉は誰にも届かない。
それどころか、彼らが弁明すればするほど事態は悪化していった。
『美月ちゃんが部長なんだろ?
早くこんな不謹慎な投稿やめさせろよ』
『健司、お前も一緒になって何やってるんだ』
『拓也、お前こういうの好きそうだもんな。
でもこれはやりすぎだ』
善意はやがて苛立ちに変わり、苛立ちはやがて明確な非難と軽蔑へと変わっていった。
彼らはこれまで築き上げてきた人間関係のその全てから、急速に孤立していく。
誰も彼らの悲痛な叫びを信じてはくれなかった。
彼らはただの「悪趣味な悪ふざけをしている変人たち」として認識されてしまったのだ。
そして呪いはさらに、その牙を剥く。
勝手に投稿される写真は、もはやあの集合写真だけではなくなった。
ある時は廃寺の暗い本堂の中で、怯えきった表情で蹲る彼らの盗撮写真。 ある時は四万十川の濁流の写真。
その渦巻く水面の中に、よく見ると苦悶に歪む彼らの顔がいくつも浮かび上がっている。
ある時は、あの泥にまみれた『秘匿葬送記録』の巻物の写真。
そのページには彼ら一人一人の名前が、まるで血で書かれたかのように滲んでいた。
彼らの秘密。
彼らの恐怖。
彼らの呪い。
その全てが彼らの意思とは無関係に、世界中に晒されていく。
彼らはスマートフォンを手放せなくなった。
いつまたあのおぞましい写真が投稿されるか、わからないからだ。
そして同時に、スマートフォンを見ることが何よりも恐ろしくなった。
画面の向こう側には友人たちの非難の声と、そして自分たちの死の姿が映し出されているのだから。
彼らの最後の命綱であったはずの、仲間との繋がり。
それさえも呪いは容赦なく破壊していく。
『……お前のせいだ』
グループチャトに誰かがそう打ち込んだ。
『美月があんな場所に行こうなんて言わなければ』
『拓也があの巻物を見つけなければ』
『由香が最初に怖がった時にやめておけば』
疑心暗鬼が彼らの心を蝕んでいく。
呪いは彼らを社会的に孤立させ、そして内側からその関係性を腐らせていく。
それはあまりに陰湿で、そして残酷な現代の呪詛だった。
彼らの日常はもはや、どこにもない。
彼らはデジタルというガラス張りの水槽の中に閉じ込められ、そして世界中からの無数の視線に晒されながら、ゆっくりと溺れていくしかなかったのだ。




