第三十話:都会に還る影
あの廃寺での一夜は、彼らの記憶に決して消えることのない湿った染みとなってこびりついていた。
あれほど激しく世界を叩きつけていた豪雨は、夜が明ける頃にはまるで壮大ないたずらを終えたかのようにぴたりと止んでいた。
昨夜、彼らの鼓膜を突き刺したあの金属的な耳鳴りも、不気味に響いた水たまりの音も、今はもう聞こえない。
そのあまりに完全な静寂が、逆説的に昨夜の出来事が現実であったことを、彼らに残酷なまでに突きつけていた。
彼らが恐る恐る寺の外へと足を踏み出した時、あれほど荒れ狂っていたはずの濁流は嘘のようにその水嵩を減らしていた。
かろうじて人が歩ける程度のぬかるんだ小道が、まるで彼らを現実世界へと手招きしているかのようにそこにはあった。 彼らは逃げるようにその廃村を後にした。
下山する道中、誰一人として口を開く者はいなかった。
ただ互いの血の気を失い、憔悴しきった顔を盗み見るだけだった。
あの奇妙な巻物は、美月がまるで見てはならないものに二度と蓋をするかのように、再び油紙に包み、元の仏壇の下の暗く湿った土の中へと戻していた。
その指先が微かに震えていたのを、健司だけが見ていた。
「……あれは全部、気のせいだよな」
麓の集落に辿り着き、泥だらけのままレンタカーに転がり込んだ時、最初にその脆い沈黙を破ったのは拓也だった。
「吊り橋効果ってやつだろ。
あのヤバい状況でヤバいもん読んだから、みんなで同じ幻聴を聞いたんだ。
そうに決まってる」
彼のほとんど祈りにも似た空元気の言葉に、由香も宏も、そして健司も、まるで溺れる者が藁にすがるかのように無理やり頷いてみせた。
そうだ。そうに違いない。
あれは極限状況下で発生した、集団ヒステリーの一種だったのだ。
美月だけが何も言わず、窓の外を流れていく濃い緑を、ただ虚ろな目で見つめていた。
東京に戻り、彼らの都会での日常が再び始まった。
耳をつんざくような蝉時雨、アスファルトの陽炎を伴った照り返し、そしてクーラーが効いた乾いた人工の空気。 あの山中のじっとりとした湿気と、濃密な生命と腐敗の匂いは、まるで遠い国で見た悪夢の記憶のようだった。
彼らは努めて明るく振る舞った。
合宿の楽しかった思い出だけを切り取って語り合った。
あの廃寺での出来事は、まるで決して破ってはならない誓約でもあるかのように、誰も口にしなかった。
そうすることで彼らは、あの異常な一夜を自分たちの論理的で堅固な現実の外側へと追い出そうと必死だったのだ。
しかし影はすでに、彼らの日常の内側にまで深く静かに染み込んでいた。
最初にその決定的な違和感に気づいたのは美月だった。
彼女は自分の部屋が、あの廃村から帰ってきて以来常に湿っぽいことに気づいていた。
都心にある彼女のワンルームマンションは気密性が高く、本来ならば除湿器をかければすぐに空気は砂漠のように乾くはずだった。
だが、今は違った。
除湿器は「強」のモードで一日中低い唸り声を上げ続け、そのタンクには毎日驚くほどの量の水が溜まっていく。
だというのに部屋の空気は、常にあの廃寺の本堂で感じたじっとりとした重い湿気を帯び続けていた。
壁紙を指でなぞるとひやりと冷たく、微かな湿り気を感じる。床のフローリングの板は、まるで水を吸ったかのように歩くたびに「ぎしり」と軋むようになった。
彼女は初め、これを今年の記録的な夏の気候のせいだろうと思っていた。
しかし、その湿気の質がただの湿度とは明らかに違うことに彼女は気づき始めていたのだ。
それは、あの廃寺の床下から発見された巻物の束が放っていた、あの匂い。 古い紙と黴、そしてあの井戸の底のような昏く冷たい土の匂い。
その匂いがごく、ごく微かに、この都会の乾いたはずのコンクリートの箱の中から漂ってくるのだ。
その逃れられない感覚は、彼女だけのものではなかった。
健司は自分の部屋のユニットバスの排水溝から、常に下水とは違うあの山の腐葉土のような匂いが逆流してくることに悩まされていた。
いくら洗浄剤を流し込んでも、その匂いは数時間もすれば再びバスルームを満たした。
拓也は合宿にも着て行ったお気に入りの革製のジャケットの背中の部分に、黒いカビのような染みが浮かび上がっているのを発見した。
彼は慌てて専用のクリーナーでそれを拭き取った。だが数日もすれば、その染みは以前よりもさらに濃く、そして大きく同じ場所に再び浮かび上がってくるのだった。
宏は現像した合宿の写真を整理していて、数枚奇妙な写真が紛れ込んでいるのに気づいた。
それはまるでレンズが内側から結露してしまったかのように、被写体の輪郭が滲み歪んでいた。
そしてその歪んだ写真に写っているのは、決まってあの廃寺の周辺の風景だった。
歪んだ木々のその影の中に、何か人影のようなものが写り込んでいるように彼には見えた。
そして、由香。
彼女はある夜、自分のベッドのシーツがじっとりと湿っていることに気づいた。
まるで誰かがそこで、大量の冷や汗をかいたかのように。
彼女は悲鳴を上げてそのシーツを洗濯機に放り込んだ。
そしてコインランドリーの強力な乾燥機で完全に乾かしたはずだった。
だが、その夜も彼女がベッドに入るとシーツはやはり同じように湿っていた。
そしてそこから微かに漂う泥の匂いは、決して消えることはなかった。
彼らはまだ互いに、その奇妙な日常の綻びについて語り合っては、いなかった。
それはあまりに些細で、そしてあまりに馬鹿げた偶然に思えたからだ。
しかし彼らは皆、心の奥深くでは感じていた。
自分たちが、あの廃村から何かを「持ち帰って」きてしまったのだと。
それは写真でも石でも、土産物でもない。
もっと実態のない、しかし確実に存在する何か。
あの廃寺の淀んだ空気。
あの泥の中から現れた巻物の冷たさ。
そしてあの豪雨と一つになった、不自然な水たまりの音。
その全ての記憶が凝縮された「湿った影」のようなものが。
彼らの乾いたはずの都会の日常の、すぐ後ろに。
まるで和紙に滲む墨の染みのように、じわりと、静かに、そして確実にその領域を広げ始めていた。




