第二十九話:禁じられた読経
「――【極秘】、秘匿、葬送、記録……」
佐伯美月の声が、廃寺の淀んだ空気の中に虚しく響いた。
外では世界が終わるかのような豪雨が荒れ狂っている。
その轟音の中、五人の大学生はスマートフォンの頼りない光を頼りに、泥にまみれた古びた巻物の束を固唾をのんで見つめていた。
「……秘匿、だってさ。
やばいんじゃない、これ」
拓也が興奮と恐怖が入り混じった声で囁いた。
「ただの古いお寺の日誌みたいなものよ。
大げさなんだから」
由香が強がるように言うが、その声はわずかに震えていた。
「美月、やめておけ」
健司が美月の腕をそっと掴んだ。
「何か嫌な感じがする。
元あった場所に戻そう」
健司の言葉は正論だった。
この隔絶された空間で、得体の知れない禁忌を思わせるような古文書に触れるべきではない。
全員が心のどこかでは、それを理解していた。
しかし美月は動かなかった。
彼女の瞳は目の前の巻物に釘付けになっている。
それは民俗学者を志す彼女にとって、抗いがたい魅力に満てていた。
地図から消えた村。
その廃寺の床下から発見された秘密の記録。
これ以上の「本物」があるだろうか。
そして、この閉塞した状況。
恐怖と退屈が、じわじわと彼らの精神を蝕んでいく。
何か行動を起こさなくては。
この淀んだ空気を破壊しなくては。
「……肝試し、しない?」
美月は悪戯っぽく笑ってみせた。
その笑みは、しかしどこか引き攣っているようにも見えた。
「せっかくだから一巻だけ読んでみようよ、みんなで。
これも立派な実地調査だよ」
それは学術的興味と、そしてこの異常な状況から目を逸らすための、向こう見ずな若者特有の蛮勇だった。
健司はなおも渋ったが、拓也と宏はその禁断の響きを持つ提案にすぐに魅了された。
結局最後に健司も折れた。
美月を一人にしておくわけにはいかなかったのだ。
彼らは本堂の中央に円陣を組むように座り込んだ。
それぞれのスマートフォンのライトが、中央に置かれた一巻の巻物を舞台照明のように照らし出す。
外の轟音の雨音が、まるでこれから始まる禁じられた儀式のための太鼓の乱れ打ちのようだった。
美月は泥に汚れた巻物の中から、比較的状態の良い一巻を選び出した。
そしてその湿って波打った和紙の紐を、震える指でゆっくりと解いていく。
巻物が開かれる。
そこには昭和の中頃のものと思われる、生々しい、しかし力強い筆致である葬儀の記録が綴られていた。
美月はその古びた文字を、声に出して読み始めた。
彼女の声だけが、五人の小さな光の輪の中で響き渡る。
「【極秘】秘匿葬送記録:参ノ巻。
事案名:吉田徳三集落沈黙記録……」
巻物に記されていたのは、山間の過疎集落で起きた、ある旧家の長老の葬儀にまつわる怪異の記録だった。
報告者である僧侶がその集落に足を踏み入れた際、普段は聞こえるはずの鳥や虫の声が一切せず、異常な静けさに包まれていたという。
「……こわっ。
音が消える村とか、まんまじゃん」
拓也が囁く。
美月は構わず読み進めた。
通夜が始まると、その静寂はさらに深まり、薪がはぜる音や遠くの車の音さえも完全に消え、集落全体が完全な「無音」の状態になった。
通夜振る舞いでは、参列者たちは生気を失い、ほとんど会話もなく、ただ故人の写真に吸い寄せられるように視線を固定していた。
「……なんか、今の私たちみたいじゃない?」
由香が不安げに呟き、一同は無言で顔を見合わせた。
記録は翌日の告別式へと続く。
読経を始めると、自分の声が空気に吸い込まれるように響かず、耳の奥で「キーン」という高音が鳴り続け、激しい頭痛と吐き気に襲われたと記されていた。
美月は、その一節を読みながら、自らの喉が渇き、頭が重くなっていくのを感じた。
そして、出棺の際、決定的な異変が起きる。
参列者が持っていた故人の盆栽の枝から、あり得ないほどの湿気が発せられ、周囲の空気が急に冷たくなった。
そして、火葬を終えて寺に戻る道中、雨が降り始めると、それまでの「無音」は和らいだ。
しかし、雨が上がった後も、集落のあちこちには、まるで意図的に作られたかのような、不自然な水たまりが点々と残っていたというのだ。
「……水たまり……」
健司が低い声で繰り返した。
記録の最後は、報告者である僧侶の考察で締めくくられていた。
この「無音」と、その後に残された「水たまり」の関連性は不明だが、土地の「穢れ」が形を変えて現れたものではないか、と。
「……以上」
美月が最後の一文を読み終えた。
彼女の声はすっかり掠れていた。
巻物が閉じられる。
途端に彼らの小さな光の輪を、再びあの重苦しい沈黙が支配した。
聞こえるのは、外の凄まじい雨音だけ。
いや。違う。
「……ねえ」
最初にそれに気づいたのは由香だった。
彼女の声は恐怖に引き攣っていた。
「……なんか、この雨の音……おかしくない?」
彼女の言葉に、全員がはっとしたように耳を澄ませた。
そして、理解した。
外で降り注いでいるあの轟音の雨音。
それはもはやただの無機質な自然の音ではなかった。
その轟音の奥から、何かが聞こえる。
キーン。
それは、ごく微かだが、鼓膜を直接突き刺すような、鋭い高音だった。
記録に記されていた、あの僧侶を襲った耳鳴りと、全く同じ音。
そして、その耳鳴りを覆い尽くすように、別の音が響き始めた。
ざあ、という雨音のリズムが奇妙に、途切れている。轟音の合間、合間に、まるで意図的に挿入されたかのような、別の音が混じり合っているのだ。
――ぽつん。ぽつり。
不自然な、水たまりが、地面に、生まれては、消える音。
それは先ほどまで美月が読んでいた、あの記録の中に記されていた情景。
集落の「無音」が破られた後に残された、あの不吉な水たまりの音。
その音が今、この廃寺の外の世界の全てを支配していた。
それはもはや気のせいなどではなかった。
彼らの共通の認識となった。
彼らは顔を見合わせた。
それぞれのスマートフォンのライトに照らし出された顔は、皆一様に血の気を失い、恐怖に歪んでいた。
彼らが今しがた行った行為。
それはただの肝試しなどではなかった。
それは、この廃寺に眠っていた呪いを呼び覚ますための、禁じられた読経だったのだ。
そしてその呪いは今、外で降りしきる豪雨と一つになり、この寺を、そしてその中にいる彼らを、静かに、そして確実に包み込もうとしていた。




