第二十七話:廃村の雨宿り
東京の喧騒を離れ、彼らが目的の地である高知県の山中に足を踏み入れたのは合宿を開始してから三日目のことだった。
レンタカーで行けるのは麓の寂れた集落まで。
そこから先は、かつて徳與美村の村人たちが使っていたであろう獣道同然の古道を、自らの足で登っていくしかなかった。
道は険しかった。
ぬかるんだ斜面に足を取られ、蜘蛛の巣を払い、生い茂る羊歯をかき分けながら進む。
じっとりと肌にまとわりつく湿気と絶え間なく鳴り響く蝉時雨が、容赦なく彼らの体力を奪っていった。
「ねえ、本当にこの先に村なんてあるの?」
由香が弱音を吐く。
「あるって!
この古文書の地図を信じなさい!」
美月は汗だくの顔に、それでも冒険者の笑みを浮かべていた。
彼女のその根拠のない、しかし人を惹きつける情熱だけが、この苦行のような登山を支える唯一の原動力だった。
そして数時間の格闘の末、彼らはついにその場所に辿り着いた。
不意に視界が開ける。
そこは山の斜面にへばりつくようにして存在する、小さな平らな土地だった。
「……ここが、徳與美村……」
拓也が息を呑んで呟いた。
そこに村の面影はほとんど残っていなかった。
苔むした石垣、雑草に埋もれた家屋の土台、そして自然の重みに耐えきれず潰れて炭化した、いくつかの茅葺屋根の残骸。
文明の痕跡は、百年に及ぶ植物たちの静かな、しかし執拗な侵略によって、そのほとんどが飲み込まれようとしていた。
しかし美月は歓喜の声を上げた。
「見て! すごい……!
本当にあったんだ!」
彼女はまるで宝物でも見つけたかのように、その廃墟の中を駆け回り始めた。
健司はそんな彼女の姿を心配そうに見守りながらも、その瞳には安堵の色が浮かんでいた。
由香は虫除けスプレーを全身に撒き散らし、拓也とカメラを構えた宏は、その退廃的な風景に興奮を隠しきれない様子だった。
彼らは早速探索を始めた。
朽ち果てた家屋の土台を調べ、井戸の跡を見つけ、そして村の入り口にひっそりと佇む一体の地蔵菩薩を発見した。
その地蔵は顔の輪郭が雨風によってのっぺりと溶け落ちていたが、その首に巻かれた色褪せた赤い前掛けだけが、かつてここに確かに人々の営みがあったことを静かに物語っていた。
その日の空は晴れていた。
夏の強い日差しが木々の隙間から、まだら模様の光を地面に落としている。
しかし空気は、まるで嵐の前の海のように不自然なほど凪いでいた。
あれほどけたたましく鳴り響いていた蝉の声が、いつの間にかぴたりと止んでいることに、彼らの中の誰もまだ気づいてはいなかった。
異変は唐突に訪れた。
「……ん?」
美月がふと空を見上げた。
さっきまで青く澄み渡っていたはずの空が、いつの間にか濃い鉛色の雲に急速に覆い尽くされようとしていた。
そして山の向こうから、冷たい湿った風が「ざあ」と音を立てて吹き抜けていく。
ぽつ。
ぽつ。
大粒の冷たい雨粒が、彼らの頬を叩いた。
「まずい、山の天気だ!
早くどこか雨宿りできる場所を!」
健司が叫んだ。
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、雨はもはや雨と呼べるものではなくなった。
ゴオオオオオオオオッ!
天の底が抜けた。
そんな陳腐な比喩しか思い浮かばないほどの凄まじい豪雨。
それはもはや雨粒ではなかった。
天から地上へと直接叩きつけられる、巨大な水の塊だった。
視界は一瞬にして白と灰色だけの世界へと塗り潰され、耳をつんざくような雨音と雷鳴が全ての音を掻き消していく。
「あっちだ! 屋根が残ってる!」
拓也が指差した先。
そこには村の最も高い場所に、辛うじてその屋根の形を保った一軒の古い建物があった。
寺だ。
彼らはもはや何も考えられなかった。
ただ本能のままに、その唯一の避難所へと向かって泥と雨の中を必死に走った。
ぬかるんだ地面に足を取られ、顔に叩きつける雨に息もできない。
そして彼らはほとんど転がり込むようにして、その廃寺の本堂へと飛び込んだ。
「はあっ……はあっ……!」
五人はずぶ濡れになったまま本堂の入口で、肩で息をしていた。
外では今もなお、滝のような雨が世界を洗い流さんばかりの勢いで降り注いでいる。
本堂の中は薄暗く、そして静かだった。
屋根のあちこちから雨漏りがしていたが、それでも外の暴威と比べればここはまるで天国のように安全な場所に思えた。
だが、その安堵感は長くは続かなかった。
彼らがようやく呼吸を整え、改めて自分たちがいる場所を見回した時、その空気がただの古い寺のそれではないことに気づき始めたのだ。
黴と腐った木材の匂い。
それに混じってごく微かに、しかし確実にあの橘宗一の店にも漂っていた古い井戸の底のような、淀んだ水の匂い。
そして、外の凄まじい雨音。
それはただの雨音ではなかった。
よく耳を澄ませば、その轟音の奥からまるで無数の人間が水の中で助けを求めてもがいているかのような、くぐもった呻き声が聞こえてくるようだった。
健司が青ざめた顔で外を指差した。
「……道が」
彼らがさっきまで歩いてきたはずの、あの獣道。
それはもはや道ではなかった。 茶色く濁った激しい急流と化し、彼らの唯一の退路を完全に断ち切っていた。
彼らは完全にこの廃寺に閉じ込められてしまったのだ。
冒険への甘い期待は跡形もなく消え去っていた。
彼らの心の中には今、じわりと、しかし確実に一つの冷たい感情が染み出し始めていた。
――ここから、生きて帰ることはできるのだろうか。
外では滝のような雨が、まるで彼らをこの場所に縫い付けようとするかのように、いつまでも、いつまでも降り注いでいた。




