第二十六話:好奇心という病
橘宗一という男の葬儀で起きた怪異の記録が、金沢の若い僧侶の手によって新たな一巻として『秘匿葬送記録』に加えられた頃。
その存在を知る由もない若者たちが、東京のとある大学の一室に集まっていた。
夏の気だるい午後の日差しが、埃っぽい部室の空気を白く照らし出している。
壁一面には日本各地の地図と、色褪せた民俗調査の写真。床には民間伝承や奇譚の類を集めた、古今東西の書物が無秩序に積み上げられていた。
「――で、今年の夏合宿なんだけど」
その声の主は、この大学の民俗学研究サークルの部長を務める佐伯美月だった。
彼女は机の上に広げられた巨大な地図を指し示しながら、熱に浮かされたようなきらきらとした瞳で、集まった四人の仲間たちを見回した。
「もう決めてあるんだ。とっておきの場所が」
彼女のその言葉に、部員たちの反応は三者三様だった。
美月の恋人である健司は「また無茶なことを言い出すんじゃないだろうな」と、やれやれという顔で肩をすくめる。
スリルを求める拓也は「お、いいね!今度はどこだよ?」と身を乗り出した。
そして、由香は、興味なさそうにスマートフォンの画面をなぞっている。
美月はそんな彼らの反応を楽しむかのようににやりと笑うと、地図の一点を人差し指で「とん」と強く叩いた。
「ここ。
高知県、四万十川の上流、そのさらに奥深く。
地図にはもう載っていない村」
彼女の言葉に、拓也以外の全員が怪訝な顔をした。
「地図にない村って……。
ただの廃村のことだろ?」
健司がもっともな疑問を口にする。
しかし美月は、待ってましたとばかりに首を横に振った。
「ただの廃村じゃない。
これは『消えた村』なの」
彼女は傍らに置いてあった古びた郷土史の写しを、皆の前に広げた。
そこには黄ばんだ紙に、手書きの地図と几帳面な文字である村にまつわる記述が記されていた。
「徳與美村。
昭和の中頃まで確かにそこにあったとされる、小さな、小さな山間の集落。
でも、ある時期を境に忽然と全ての公的な記録からその存在が抹消された。
村人たちが集団でどこかへ移住したとか、そういう記録も一切ない。
まるで最初から、そんな村は存在しなかったみたいに」
美月の声は次第に熱を帯びていく。
それは学者の声というよりは、禁断の物語を語る語り部の声だった。
「地元の古い言い伝えではこう言われている。
――あの山の神は時に人を攫う。
気に入った人間を自分の隠れ里へと連れていく。
それが『神隠し』だってね」
「神隠し、か。またベタな……」
由香が鼻で笑う。
だが、拓也は目を輝かせていた。
「マジかよ!
本物の神隠し村ってことか!
最高じゃん!」
健司はそんな拓也を呆れた目で見ながら、腕を組んだ。
「美月、本気で言ってるのか?
地図にない村ってことは道もないってことだろ。
携帯の電波も間違いなく通じない。
それに四国の山奥だぞ。
夏なら豪雨や土砂崩れの危険だってある。危なすぎる」
彼の言葉は正論だった。
しかし美月の瞳の奥で燃え盛る、好奇心という名の病の炎を消すには至らない。
「だからいいんじゃない!
誰も行ったことがない場所に私たちが行くの。
そこにどんな痕跡が残されているのか、どんな真実が眠っているのか。
それをこの目で確かめる。
これこそ民俗学のロマンでしょ?」
彼女の情熱は伝染する。
健司の懸念も由香の呆れ顔も、その熱量に少しずつ溶かされていく。
彼らはこれまでも、美月のこの無謀ともいえる情熱に何度も引きずられるようにして、忘れられない体験を共有してきたのだ。
「……まあ、確かに誰も知らない伝説を発見できたら、面白いかもね」
由香がスマートフォンの画面からようやく顔を上げた。
「……装備だけはちゃんとしていくならな」
健司もまた渋々と、しかし最終的には折れるしかなかった。
彼は美月のことが心配で、そして誰よりも彼女のその情熱に惹かれているのだから。
「決まり、だね!」
美月は満面の笑みを浮かべると、パンと柏手を打った。
サークル仲間四人と彼女。五人の夏合宿の行き先が決定した瞬間だった。
彼らはこれから始まる冒険への期待に、胸を膨らませていた。
その好奇心が、彼らを日本各地にひっそりと眠る呪いの断章の、その一つへと一直線に導いていることなど知る由もなく。
地図の上で美月の指が示した、その空白の地点。
それはただ地理的な情報が欠落しているだけではなかった。
それは人の世の理から切り離された、古く、そして湿った異界への入り口だったのだ。




