第二十五話:橘宗一器物溺死記録
橘宗一の死は古都の片隅で起きた、ささやかな悲劇として処理された。
店の地下室で、原因不明の浸水による事故死。
彼の店に残された夥しい数の古美術品たちは、彼の死を悼むかのようにただ静かに沈黙を守っていた。
彼の葬儀が金沢市内の斎場で執り行われることになったのは、遺体が発見されてから数日後のことだった。
担当することになったのは市内の小さな寺の、まだ若い僧侶、了慶。
彼は橘宗一という男とは何の面識もなかった。
彼にとってそれは、数ある葬儀の中の一つに過ぎないはずだった。
異変は葬儀の前日に起きた。
了慶の元に宗派の本山を通じて、一通の古風な封書が届けられたのだ。
差出人の名はない。
中には一枚の和紙が入っており、そこには流麗な、しかしどこか冷たい筆致でこう記されていた。
『明日の橘宗一の葬儀を、滞りなく執り行うべし。
ただしその場にて何らかの異変ありし時は、決して動揺することなく、その眼に全ての事象を焼き付け、些細なことまで記憶せよ。
追って、記録の手順を指示する』
了慶はその不可解な文面に、ただ困惑した。
一体誰が、何のために。
故人の死に何か、世間に知られてはならない秘密でもあるというのだろうか。
彼は胸に小さな、しかし鉛のような重い疑念を抱えたまま、葬儀の日を迎えることになった。
斎場は静かだった。
参列者は十数名ほど。
橘の遠縁の親族と、数名の同業者らしき男たちだけだった。
誰もがどこか他人行儀で、会場には深い悲しみというよりは、むしろ気まずい沈黙が満ちていた。
了慶は祭壇の前に座し、ゆっくりと息を吸い込んだ。
そして澄んだ声で、読経を始めた。
彼の声が静寂を切り裂き、斎場に響き渡る。全てはいつも通りの厳かな葬儀。 そう、思われた。
異変は読経が始まって、数分も経たないうちに現れ始めた。
了慶は視界の端で、最前列に座る年配の女性が訝しげな顔で自分の手元を見ているのに気づいた。
彼女は手にしていたはずの数珠を、まるでそれが急に重くなったかのように何度も持ち直している。
その隣の男は膝の上に置いていた革製のハンドバッグの重みに、耐えかねるように身じろぎをしていた。
それは一人、二人ではなかった。
参列者たちの間で無言の動揺が、さざ波のように広がっていく。誰もが自分の持ち物が、まるで水を吸った海綿のようにじっとりと、そして鉛のように重くなっていくのを感じていたのだ。
了慶自身、身にまとっているはずの乾いた袈裟が、まるで雨に濡れたかのように肌に重く張り付いてくるのを感じていた。
そして、次の異変は音となって現れた。
ゴポ、ゴポゴポ……。
それは橘の白木の棺の中から聞こえてきた。
まるで棺の底から水が湧き出てくるかのような、くぐもった不吉な音。
その音は次第に大きくなり、読経の声と混じり合い始めた。
参列者たちの顔が恐怖に引き攣っていく。
何人かは腰を浮かせ逃げ出そうとするが、その身体はまるで見えざる水圧に押さえつけられているかのように、動くことができない。
ゴポ、ゴポ、という水音に、やがて別の音が混じり始めた。
「カリン」という硬質な音。
続いて「パリンッ!」という鋭い陶器が砕ける音。
それは間違いなく棺の中からだった。
まるで故人が棺の中で暴れ、周りにあるものを手当たり次第に破壊しているかのようだ。
了慶は全身から冷たい汗が噴き出すのを感じていた。
だが、あの書状の言葉が彼の脳裏をよぎる。
『動揺せず、全てを観測し、記録せよ』。
彼は恐怖に引き攣る喉を必死で動かし、読経を続けた。
そしてその視線だけを、ゆっくりと祭壇の遺影へと向けた。
そこに、あった。 この世のものではない光景が。
遺影の中の橘宗一は、生前の商魂たくましい自信に満ちた笑みを浮かべていたはずだった。
だが、今、了慶の目に映っているのは全くの別人だった。
写真のその表面が、まるで水面のように揺らめいている。その揺らめく水面のその奥で、橘の顔が水中で苦悶に歪んでいた。
その目は見開かれ、口は声なき叫びを上げるかのように大きく開かれている。
そしてその苦悶に歪む顔の、さらにその奥。
遺影の背景であるはずの店の壁紙は、どこにもない。
そこにあるのはどこまでも続く、昏く濁った水底の光景。
そしてその水底に、無数の古美術品たちが沈んでいるのが見えた。
錆びた刀、割れた壺、そして印を結んだままの仏像の腕。それらが水草のように、橘の顔の周りをゆらゆらと漂っている。
遺影はもはやただの写真ではなかった。
それは男が自らの欲望と共に溺れ沈んでいった水底の地獄を、そのまま映し出す「窓」と化していたのだ。
その後の葬儀の記憶は、了慶にはほとんどない。
参列者たちの悲鳴、斎場の混乱。
彼はただ目の前の光景に魂を奪われ、それでも途切れ途切れに経文を唱え続けていた。
数日後。
了慶は自坊の静まり返った書院で、一人墨を磨っていた。
彼の前には真っ白な和紙の束が置かれている。
葬儀の後再びあの差出人不明の書状が届き、そこには記録を残すための詳細な様式が記されていたのだ。
あの遺影の光景が脳裏に焼き付いて離れない。
指が震える。
筆を持つことさえ恐ろしかった。
だが、彼は書かなければならない。
これは彼に課せられた務めなのだ。
彼がこの日から、あの終わりなき絶望の網の新たな一端を担うことになってしまったのだとしても。
了慶は震える筆を、黒々とした墨に浸した。
そして意を決し、真っ白な和紙の最初の行に、その忌まわしい表題を書き記した。
【極秘】秘匿葬送記録:七拾ノ巻
事案名:橘宗一器物溺死記録




