第二十四話:器物溺死
虚ろな瞳。
虚ろな瞳。
虚ろな瞳。
水面に浮かぶ無数の死者たちの感情のない瞳が、一斉に橘宗一を見上げていた。
闇と泥水、そして絶対的な静寂。
その中で、ただ視線だけが生き物のように彼に絡みついてくる。
――お前も、こちら側だ。
その声なき声が彼の脳髄を直接揺さぶる。
橘の心の中で、恐怖によって張り詰められていた最後の糸がぷつりと音を立てて切れた。
「う……あああああああっ!」
もはやそれは言葉にならなかった。
彼の喉から迸ったのは、恐怖の極致に達した獣の咆哮。
彼は懐中電灯と火掻き棒を放り出すと背を向け、もつれる足で必死に階段の方へと逃げ出した。
逃げなくては。 ここから。
この水で満たされた墓場から。
彼が水の中を狂ったようにかき分けて進んだ、その時だった。
彼の右足首に、ぬるりとした何かが絡みついた。
「――っ!?」
藻か?
水中に沈んだ何かの紐か?
彼は必死に足を振りほどこうとする。
しかしそれは、まるで鋼鉄の枷のように彼の足首を決して離さない。
それどころか、さらに強く、強く締め上げてくる。
橘はバランスを崩し、冷たい水の中へと倒れ込んだ。
「ごぼっ!」
泥と腐敗物の匂いが混じった冒涜的な水が、彼の口と鼻から一気になだれ込んでくる。
彼は必死に水面へと顔を出そうともがいた。
そして見た。
自分の足首に絡みついていたものの正体を。
それは水底の泥の中から、まるで黒い蛇のように伸びてきた、一本の古く、古い船の碇綱だった。
表面にはびっしりとフジツボのようなものが付着し、その隙間から長い黒い髪の毛のようなものが、ゆらゆらと揺らめいている。
「……なんだ、これは……!」
彼の店にこんなものがあった記憶はない。
これは彼の店のものではない。
これは、この「水底」の住人なのだ。
碇綱はぎりぎりと彼の足首に食い込みながら、彼を容赦なく水底へと引きずり込み始めた。
「う……ぐ……!」
橘は必死に、近くにあった水面に浮かぶ木箱の縁を掴んだ。
しかしその抵抗も虚しかった。
彼の身体は抗いがたい力で、ゆっくりと、しかし確実に闇の中へと引きずられていく。
助けてくれ。誰か。
彼の声にならない叫びが水泡となって水面に浮かび、そして虚しく弾けた。
彼はもがいた。
生きるために本能のままに手足をばたつかせた。
しかしもがけばもがくほど、彼の周りに水中に沈んでいた他の「何か」が、まるで彼の苦しみに呼応するかのようにまとわりついてきたのだ。
彼の腕に、ひやりとした硬いものが絡みつく。
それは水中に沈んでいた古い仏像の千切れた腕だった。その印を結んだままの石の指が、彼の腕を強く掴んで離さない。
彼の背中に、ざりとした鋭い痛みが走る。
それは水中で割れた九谷焼の大壺の鋭利な破片だった。
その破片が彼の背中の肉を深く切り裂いていく。
彼の腹を冷たく、そして鈍い何かが圧迫する。
それは鞘から抜け落ちた錆びた刀の刀身だった。
そのなまくらになった刃が、彼の腹に重くのしかかる。
仏像の腕。壺の破片。錆びた刀。
それらは皆、彼が商品として、あるいはガラクタとしてこの地下室に無造作に投げ込んだものたちだった。
彼がその価値を算盤で弾き、値踏みしてきた「器物」。
それらが今、まるで積年の恨みを晴らすかのように、あるいは呪いの新たな手足となって彼の身体の自由を次々と奪っていく。
器物に殺される。
器物に溺れさせられる。
なんという皮肉。
なんという因果。
商人として生きてきた彼にふさわしい末路。
彼の意識は次第に遠のいていった。
肺の中の水が脳の思考を麻痺させていく。
水底から彼を見上げるあの無数の虚ろな瞳が、ぼんやりと滲んで見えた。
――お前も、こちら側だ。
死者たちの声なき声が、今度はひどく安らかに聞こえる。
そうだ。もういい。もう疲れた。
彼の身体から最後の力が抜けていく。
彼の瞳から最後の光が消えようとしていた、その瞬間だった。
彼は見た。
地下室の入り口。階段の一番上の段。
そこにいつの間にか、一体の黒い影が立っているのを。
それは、あの黒漆塗りの当世具足だった。
店の中に飾ってあったはずの、あの鎧兜。
それがなぜここに。
鎧はただ静かにそこに佇み、水底へと沈んでいく橘の姿をじっと見下ろしていた。
その鉄製の面頬の隙間から、赤黒い錆の混じった一筋の涙が、ぽたりと水面へと滴り落ちた。
それが橘宗一がこの世で見た最後の光景だった。
彼の意識は彼が愛し、そして彼を殺した無数の古美術品たちと共に、冷たく、そして暗い水底の闇の中へと完全に沈んでいった。




