第二十一話:開かれた箱
店の空気は氷のように冷え切っていた。
橘宗一の吐く息は、卓上ランプの光の中で白い靄となって揺らめいている。
しかし彼の心は、その冷気とは裏腹に熱病のような興奮に浮かされていた。
目の前には七巻の巻物。
能登と新潟。
異なる土地で異なる時代を生きた僧侶たちが、同じ呪いに直面し書き記した絶望の断章。
それらが今、互いに共鳴しぬらりとした黒い光を放っている。
これこそが本物の証。
これこそが彼が求めていた、計り知れない価値の源泉。
橘は恍惚とした表情で、新潟から届いた巻物の一巻をゆっくりと手に取った。
その表題にはこう記されていた。
【村上藩幼子水死記録】
彼はその冷たく湿った紐をまるで秘宝の封印を解くかのように、慎重に、しかし確信に満ちた手つきで解いた。
そしてその呪われた物語を貪るように読み始めた。
巻物に記されていたのは江戸の後期、越後の村上藩で起きたという、ある痛ましい事件の記録だった。
藩の勘定方を務める下級武士の娘「おふみ」。
梅雨の長雨で増水した三面川の近くで遊んでいた彼女は、突如として発生した鉄砲水に飲まれ、その小さな身体は濁流の中へと消えていった。
遺体が見つかったのは三日後のことだった。
川岸の柳の枝に無残な姿で引っかかっていたという。
問題はその葬儀だった。
雨は未だしとしとと降り続いている。
寺の本堂で執り行われた通夜の最中、参列者たちは読経の声に混じって、どこからともなく少女のむせび泣く声を聞いた。
そして棺の周りに供えられた花が、まるで水に浸かったかのように急速に萎れ、黒ずんでいったという。
記録を記した僧侶は、その夜故人の傍らで夜伽を行った。
静寂の中、彼は棺の中からはっきりと水が湧き出る音を聞いた。
「ごぽり、ごぽり」と、まるで棺そのものが泉と化したかのようだった。
そしてその水音に混じって、少女の声が彼の耳元で直接囁いたのだという。
『――寒い。水の中は、もう、嫌じゃ』
橘はその一節を読みながら、ごくりと喉を鳴らした。
面白い。実に面白い。
彼はもはや恐怖を感じてはいなかった。
それは彼の心を震わせる極上の読み物であり、そして最高の「商品紹介文」だった。
彼はメモを取りながら、この怪異の「特徴」を冷静に分析していく。
水、子供の霊、そして直接的な音声による干渉。
これは高く売れる。
彼は巻物の最後まで一気に読み通した。
その結末は、僧侶が原因不明の高熱と水への異常な恐怖に、その後何年も悩まされ続けたというもので締めくくられていた。
「……なるほどな」
橘は満足げに呟くと、巻物をゆっくりと巻き戻していった。
そしてその最後の端が、軸に収まった、まさにその瞬間だった。
パリンッ!
店の奥の展示ケースの方から、鋭い音が響いた。
続いて「パンッ、パンッ」と乾いた破裂音が、連続して店内に木霊する。
次の瞬間、彼の机の上を照らしていた卓上ランプが激しい火花を散らして消えた。
バツンッ!
店内の全ての電灯が、一斉にその命を絶った。
そしてガラスの破片が床に降り注ぐ、「シャン」という涼やかな音が暗闇の中に響き渡った。
「なっ……!?」
橘は椅子から飛び上がった。
完全な漆黒の闇。
ほんの数秒前までそこにあったはずの古美術品たちの輪郭も、自分の手さえも全く見えない。
漏電か?
いや、こんなことが一斉に起きるはずがない。
彼は手探りで机の上の桐箱を、そしてその中にある巻物を必死でかき集めた。
これがなければ始まらない。
その時、彼は気づいた。
外の雨の音が、止んでいる。
あれほど激しく屋根を叩いていたはずの雨音が。
だが、その静寂は安らぎをもたらさなかった。
それどころか、その静寂こそが次なる、より巨大な恐怖への序曲だったのだ。
ゴゴゴゴゴゴゴ…………。
低い地鳴りのような音が、店の外から聞こえ始めた。
それは地震の揺れとは違う。
空気そのものを震わせるような、重く巨大な何かの唸り声。
音は急速にその音量を増していく。
ゴゴゴゴ……から、グオオオオオオオオオオッ!という凄まじい轟音へと。
それはまるで巨大なダムの水門が、一斉に開かれたかのような音だった。
何億トンという水が全てのものを薙ぎ倒し、押し流していく絶対的な破壊の音。
「……なんだ、これは……」
橘は腰を抜かし、その場にへたり込んだ。
店の薄いシャッター一枚を隔てたすぐ向こう側から、その轟音が聞こえてくる。ありえない。
店の外は晴れていたはずだ。
金沢の街のど真真ん中に、ダムなどあるはずがない。
だが、音は現実だった。
店の床がビリビリと震えている。
棚に置かれた陶器がカタカタと悲鳴のような音を立てている。窓ガラスがその凄まじい音圧に耐えかねて、ミシミシと軋んでいる。
彼は耳を塞いだ。
だが、無駄だった。
その音はもはや耳から聞こえてくる音ではなかった。
それは彼の身体の骨の髄まで、直接響いてくる暴力的な振動だった。
彼は暗闇の中で理解した。
これは自分が桐箱を開けてしまったことへの、報いなのだと。
自分が異なる場所にあった呪いの断章を、再び一つにしてしまったことへの罰なのだと。
開かれた箱から溢れ出したのは、ただの怪異ではなかった。
それはこの店を、この街を、そしてこの世界そのものを水底へと引きずり込む、巨大な、巨大な濁流だった。
轟音は止まない。
橘は暗闇と振動と、そして絶対的な音の暴力の中で、ただ赤子のように身を縮こませることしかできなかった。
そしてその全てを圧殺するような轟音の、さらにその奥深くから。 彼は確かに聞いたのだ。
――ひっく、ひっく、という小さな女の子の、むせび泣く声を。




