第二十話:新たな断章
京都の長老、古賀からの警告は橘宗一の心に火をつけた。
沼に引きずり込む、だと?
結構だ。
その沼の底に一体どれほどの価値が眠っているというのか。
橘は恐怖を、もはや完全にアドレナリンと、そして金銭への狂信的な欲望へと変換しきっていた。
引き返すという選択肢はもはや彼の思考の辞書には存在しなかった。
前に進む。
沼のさらに深い場所へ。
それが商人・橘宗一がこの呪いに下した「評価」だった。
その日から、彼の行動は常軌を逸した熱を帯び始めた。
彼は店の営業を早々に切り上げると、一日中電話にかじりつき、古美術商の人脈が持つ裏の情報を漁り始めた。
彼の探求はもはや単なる情報収集ではなかった。それは獲物を追う狩人の執念だった。
「――『秘匿葬送記録』、あるいはそれに類する、曰く付きの古い葬送記録を探している」
彼は臆面もなく、そう同業者たちに告げて回った。
反応はおおよそ三つに分かれた。
大半はそんなものは聞いたこともないと、彼を不審者を見るような目で扱った。
次に彼の話に興味を示し、面白半分で情報を流してくる者たち。
しかし、それらの情報はどれも、ありふれた怪談の域を出ない偽物ばかりだった。
そして三つ目。
ごく、ごく少数の者たちの反応。
それは京都の古賀と全く同じだった。
橘が「秘匿葬送記録」という言葉を口にした瞬間、彼らはまるで蛇に睨まれたかのように凍りつく。
そして血相を変えて電話を叩き切るか、あるいは「二度とその名を口にするな」という脅迫めいた警告を残して一方的に連絡を絶つのだ。
その反応こそが、橘の確信をさらに強固なものへと変えていった。
これはただの呪物ではない。
その存在を知る者たちが皆、一様に口を噤み、その存在を隠蔽しようとする禁忌の品なのだ。
その希少価値は計り知れない。
数週間が過ぎた。
橘はほとんど眠らず、食事もろくに摂らずその探索に没頭していた。
彼の目は熱病のようにぎらつき、頬はこけ、その姿はもはや古美術商というよりは何かに憑かれた狂信者のようだった。
そしてついに、彼はそれを見つけ出した。
それは地方の寺院の什器などを専門に扱う、インターネット上の古物市場だった。
出品者は新潟のとある寺。
そのリストの片隅に、それはあった。
『宗派不明、江戸期の巻物二巻。葬送に関する記述か』
添えられていた写真は不鮮明で薄暗かった。
しかし橘の目は、その写真の中に見慣れたものをはっきりと捉えていた。
濃紺の真田紐。そしてあの、切迫したような、それでいてどこか流麗な独特の筆致。
――間違いない。
彼の心臓が大きく高鳴った。
彼は震える指で入札ボタンをクリックした。
オークションの終了まであと数時間。
入札者はまだ誰もいない。
だが、彼が入札した直後から事態は一変した。
数分もしないうちに彼の入札額を、別の誰かが上回ってくる。
彼がさらに金額を吊り上げると、またすぐに別の入札者が現れる。
入札者は二人、あるいは三人か。
彼らはまるで、この品が市場に出るのをずっと待ち構えていたかのようだった。
(……人脈をたどった連中か)
橘の脳裏に、京都の古賀のあの恐怖に満ちた声が蘇る。
彼らもまたこの記録が世に出回ることを恐れているのだ。
回収しようとしている。
「……させるものか」
橘の口から低い唸り声が漏れた。
これはもはやただの競売ではない。
呪物を巡る奪い合いだ。
彼の指は狂ったように入札額を吊り上げていく。
もはや商品の価値と利益の計算など、彼の頭の中にはなかった。
ただ、これを手に入れる。
その純粋な、そして破滅的な所有欲だけが彼を突き動かしていた。
そして長く、長い入札合戦の末、橘はその二巻の巻物をあり得ないほどの高値で競り落とした。
数日後の午後。
店の呼び鈴が鳴り、一人の配達員が一つの古びた木箱を彼に手渡した。
橘は震える手でそれを受け取った。
箱はひやりと冷たく、そしてずしりと重かった。
彼は店の入口に「本日休業」の札を掛けると、その木箱を作業机の上へと厳かに置いた。
そしてまず、能登の寺から持ち帰ったあの桐箱を開け、五巻の巻物を取り出す。
次に今届いたばかりの新潟の木箱を開ける。
中には同じように、濃紺の紐で結ばれた二巻の巻物が静かに眠っていた。
彼はその七巻の巻物を全て、机の上に一列に並べた。
能登から来た五つの断章。
そして新潟から来た二つの断章。
異なる場所で、異なる時代に、異なる僧侶の手によって書かれたはずの呪いの記録。
それらが今、この金沢の古びた店の机の上で、数十年、あるいは数百年ぶりに再会を果たしたのだ。
その瞬間だった。
店の空気が変わった。
それまでのじっとりとした湿気を含んだ空気が、一瞬にして真冬の氷のような冷気へと変貌したのだ。
橘の吐く息が白く凍りついた。
そして、聞こえる。
「ざあ」という低い音。
それは耳で聞こえる音ではなかった。
机の上に並べられた七巻の巻物そのものから、直接彼の脳の奥へと響いてくる幻聴。
それは遠い、遠い川の瀬音のようでもあり、あるいは無数の死者たちの最後の溜息のようでもあった。
机の上に並べられた巻物たちは、まるで互いに共鳴し合っているかのように、その紙の色を深く、暗く変色させていく。
墨で書かれた文字が、まるでまだ乾ききっていないかのように、ぬらりとした黒い光を放ち始めた。
橘はその光景に恐怖するどころか、恍惚とした表情さえ浮かべていた。
そうだ。
これでいい。
これこそが本物の証。
彼は新潟から届いた二巻の巻物のうち、より古く、そしてより強い気配を放つ一巻をゆっくりと手に取った。
その表題にはこう記されていた。
【村上藩幼子水死記録】
「……面白い」
橘は熱に浮かされたように呟いた。
「実に面白い物語が、読めそうだ」
彼はその巻物の、冷たく湿った紐にゆっくりと指をかけた。
彼が今、解き放とうとしているものがただの物語ではなく、この店そのものを水底へと引きずり込む巨大な濁流の、その最初の一滴であることを知らずに。




