第十九話:同業者の警告
恐怖は目的を見つけた瞬間、麻薬へと変わる。
橘宗一の心を蝕んでいた得体の知れない絶対的な恐怖は、「呪物の商品化」という彼にとって最も理解しやすい歪んだ目的意識によって、熱病のような興奮へと変質していた。
もはや彼は呪いの犠牲者ではなかった。
自らを呪いの主席研究員であり、ただ一人の学芸員であると規定し直したのだ。
店にこびりついた泥の足跡を、彼はもはや拭き清めようとはしなかった。
それどころかカメラを取り出すと、あらゆる角度からその足跡を克明に記録し始めた。
メジャーを当てその大きさを測り、泥の成分を分析するために一部を慎重に採取さえした。
鎧兜が流す錆の涙も、九谷焼の壺に残った僅かな泥の成分も、彼にとってはもはや恐怖の対象ではなく、商品の「信憑性」を裏付けるための貴重な「証拠物件」となった。
しかし、証拠だけでは足りない。
この品が一体何なのか。
その来歴、その背景。 それらを知らなければ、商品の価値を最大限に引き出すことはできない。
彼はあの能登の廃寺の住職、山岡の顔を思い出した。
あの男は明らかに何かを知っていた。
あの安堵しきった顔は、単に金に困っていただけの顔ではない。
厄介払いができたという安堵の表情だった。
だが、今更あの寺に戻って問いただすわけにもいかないだろう。
警戒されるだけだ。
橘は別のルートからの情報収集を決意した。
彼が持つ古美術商としての人脈。
その中でも特に、曰く付きの品や宗教的な遺物に深い知識を持つ京都の長老を頼ることにした。
その男、古賀は京都の祇園の奥まった路地に看板も出さずに店を構える、この業界の重鎮だった。
橘も若い頃に一度だけ、挨拶に伺ったことがある。
その時の、全てを見透かすような古井戸の底のような瞳が、彼の脳裏に蘇った。
あの男ならば、何かを知っているかもしれない。
橘は店の奥の電話機から、古賀の店の番号を回した。
数回の長い呼び出し音の後、受話器の向こうからしわがれた、しかし芯のある声が聞こえてきた。
「……もしもし」
「……ご無沙汰しております、先生。
金沢の橘と申します」
「おお、橘君か。
久しぶりじゃのう。息災かね」
古賀の声は穏やかだった。
橘は当たり障りのない世間話を数分交わした後、意を決して本題を切り出した。
「実は先生にご見識を伺いたい品が手元にありまして。
能登の方の古い寺から出たものなのですが……
『秘匿葬送記録』と題された巻物でして」
橘がその名前を口にした瞬間、受話器の向こうの空気が明らかに変わった。
それまでの穏やかな空気が、ぴんと張り詰める。
数秒の重い沈黙が流れた。
「……橘君」
再び聞こえてきた古賀の声は、先ほどとは比べ物にならないほど低く、そして冷たくなっていた。
「おぬし、今何と申した?」
「は、はあ。
『秘匿葬送記録』と……。
江戸中期頃の、和紙に墨で書かれた古い葬送の記録のようでして。
加賀藩の武士の……」
「それ以上、言わんでええ」
古賀は橘の言葉を鋭く遮った。
その声には拒絶と、そして微かな恐怖の色さえ滲んでいた。
「……橘君。
わしがおぬしに何か忠告できるとすれば、一つだけじゃ」
「……と、申しますと」
「その品には関わらんことだ。
すぐに手放せ。
いや、手放すというのも生易しい。
元あった場所へ……
いや、それももう手遅れやもしれんが……」
古賀はまるで言葉を選びあぐねるように、途切れ途切れに話す。
「先生、これは一体何なのでしょうか。
その、水観寺という寺の名も……」
橘がさらに探りを入れるように寺の名前を口にした、その時だった。
「その名を口にするな!」
受話器の向こうから、これまで聞いたこともないような古賀の激しい怒声が響いた。
それは橘の鼓膜を激しく震わせた。
「……水観寺の坊主たちが遺した物……。
あれは物語ではない。
逸話でもない。
ましてや商品になど、断じてなるものではないわ」
その声は怒りからやがて、深く、深い諦念の響きへと変わっていった。
「あれはな橘君、ただの記録じゃ。
底なしの沼に足を踏み入れてしまった者たちの、あまりに正確で、あまりに無力な、ただの記録。
そしてな、その記録は読んだ者を次の記録の登場人物として、沼の中へと静かに引きずり込むのじゃ」
「……沼に、引きずり込む……?」
「そうだ。
おぬしはもう、その沼に足首まで浸かっておる。
今ならまだ引き返せるやもしれん。
すぐにそれを土の奥深くに埋め、塩で清め、金輪際関わるな。
それがわしからの最初で最後の忠告じゃ」
一方的にそう言うと、古賀は橘の返事を待たずに、ガチャンと乱暴に電話を切った。
ツー、ツー、という無機質な切断音が静かな店内に虚しく響き渡る。
橘は受話器を握りしめたまま、呆然と立ち尽くしていた。
古賀の恐怖に満ちた声。
水観寺、沼、引きずり込む。
その言葉の一つ一つが、彼の脳裏で不吉な意味を結びつけていく。
だが。 彼の心の中で最初に湧き上がってきた感情は、恐怖ではなかった。
それは、確信だった。
――やはり、本物だ。
あの長老があれほどまでに取り乱す。
それはこの巻物が彼の想像を遥かに超えた「本物」の呪物であることの、何よりの証明ではないか。
「……沼に引きずり込む、か」
橘は受話器を静かに置くと、作業机の上のあの桐箱を、熱っぽい狂信的な光を宿した瞳でじっと見つめた。
長老の警告は彼にとって、もはや恐怖を煽るものではなかった。
それはこの商品の価値をさらに計り知れないものへと高める、最高の「鑑定書」となったのだ。
引き返せ、とあの老人は言った。
しかし橘宗一という商人は、目の前にこれほどの「宝の山」を見つけて、引き返すという選択肢を持ち合わせてはいなかった。
彼は沼の縁に立っているのではない。
彼はこれから、その沼の最も深い場所へと自らの意思で潜っていこうとしているのだ。
その先に、生涯手にしたこともないほどの莫大な「価値」が眠っていると信じて。




