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秘匿葬送記録  作者: 月影 朔


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第十八話:呪いの価値

 夜。


 橘宗一は店の奥にある住居スペースの、一番隅の壁に背を押し付け、文鎮を握りしめたまま座っていた。


  眠ることはもはや不可能だった。

雨はとうに止んでいたが、彼の耳にはまだあの「びちゃ、びちゃ」という粘つく足音が、無限に反響し続けている。


 暗闇に慣れた目が、店内の古美術品たちの影を捉える。

それらはもはや彼にとって、誇らしい商品ではなかった。一つ一つが息を潜め、こちらを観察している得体の知れない何かに見えた。


 特に店の片隅に立つ鎧兜の影はひときわ大きく、そして濃く、まるで闇そのものが人の形をとってそこに佇んでいるかのようだった。


 彼の築き上げてきた現実という名の堤防は、昨夜完全に決壊した。

濡れた九谷焼。

鎧の涙。

滲む掛け軸。

そして、目の前までやってきて忽然と消えた、泥の足跡。


 論理は粉々に砕け散り、常識は泥水に飲み込まれた。

彼の魂は今、絶対的な恐怖という名の冷たい濁流の中を、ただ漂っているだけだった。


 どうすればいい。

この店を捨てて逃げ出すか?


 だが、どこへ?

この店は彼の人生そのものだ。

ここを失えば、彼には何も残らない。


 それに、と彼は思う。

この呪いは果たして、この「場所」だけに留まるものなのだろうか。

あの巻物を読んでしまった自分自身に、すでにあの泥の足跡のような消えない染みが付いてしまっているのではないか。


 では、あの桐箱を、巻物を燃やしてしまうか?

その考えが彼の脳裏をよぎった瞬間、指先があの鎧に触れた時の冒涜的な冷たさを思い出した。


 あれは人間の怨念などという生易しいものではない。

もっと古く、もっと根源的な、自然そのもののような抗うことの許されない「力」。

そんなものに下手に手を出せばどうなるか。

灰の中から、さらにおぞましい何かが生まれ出てくるのではないか。


 逃げることも、戦うこともできない。

彼は完全に袋小路に追い詰められていた。

恐怖は彼の思考を麻痺させ、ただじっとりと冷たい汗だけが彼の肌を濡らし続けていた。


 夜が明け、窓から朝日が差し込み、店内の闇を払っていく。


 その光景はしかし、彼に何の安らぎももたらさなかった。

それどころか朝の光は、昨夜の惨状をより一層克明に照らし出していた。


 畳の間に残されたあの黒い泥の足跡。

それは夜の闇の中よりもさらに生々しく、現実的な存在としてそこに在った。


 橘はその足跡の前に、亡霊のようにふらりと立った。

そして、何時間もただそれを見つめ続けた。

恐怖の極致で、彼の心は奇妙な静けさに包まれていた。

そしてその静寂の底で、彼の本質――

商人としての冷徹な魂が、ゆっくりと頭をもたげ始めたのだ。


 彼は思考を巡らせた。


 一連の怪異がいつから始まったのか。


 そうだ。

全てはあの桐箱を開け、あの巻物を読んでからだ。


【竹内光忠水難死顕現記録】。


 あの物語に書かれていた怪異と、この店で起きている現象はあまりに酷似している。

鎧の涙。そして、この泥の足跡。


 ――繋がっている。


 ならば、これは本物だ。

この怪異は自分の精神が生み出した幻覚などではない。

あの巻物はただの古い紙ではない。

それは本物の、呪物なのだ。


 その考えに至った瞬間、彼の全身を恐怖とは質の違う、別の種類の戦慄が走り抜けた。

呪物。

本物の呪物。


 彼の脳裏に、これまでの顧客たちの顔が次々と浮かび上がってきた。

風変わりな蒐集癖を持つ地方の資産家。

超常現象に傾倒し、莫大な資産を投じる新興宗教の教祖。

失われた古代の魔術を追い求める国籍不明の秘密結社の代理人。


 彼らは皆、追い求めている。

本物を。

科学では説明できない神秘の力を秘めた、唯一無二の品を。


 もし。

もし、この『秘匿葬送記録』が、そしてそれが引き起こすこの怪異が本物であると「証明」できたなら。


 その価値は一体、いくらになる?


 九谷焼の大壺や雪舟の贋作など、比較にもならない。

彼の店にある全ての品を合わせた金額でさえ、その足元にも及ばないだろう。

それは値段が付けられないほどの、計り知れない価値を持つのではないか。


 橘の瞳の奥で、恐怖に怯えていた光がゆっくりと別の光へと変わっていく。

それは欲望という名の、乾いた熱っぽい光だった。


 そうだ。

これは災厄などではない。

これは、好機なのだ。


 恐怖を金銭への欲望で塗りつぶす。

それは彼が商人として、これまで幾度となく行ってきた生存戦略だった。

彼は恐怖という曖昧で実態のない感情を、円やドルという具体的で制御可能な数字へと、頭の中で変換し始めた。


 そのためには何が必要か。

証拠だ。


 濡れた壺や滲んだ掛け軸、そしてこの泥の足跡。

これらは状況証拠にはなっても、決定的な証拠にはなり得ない。

もっと誰の目にも明らかな、反論のしようのない怪異の「現象」そのものを記録する必要がある。


 彼はゆっくりと作業机の方へと振り返った。

そこにはあの桐箱が静かに置かれている。

もはやそれは彼にとって、恐怖の源泉ではなかった。


 それは莫大な富を生み出す可能性を秘めた、未知の鉱脈だった。


 そして、その中にあるまだ読んでいない四巻の巻物。

あれはもはや、開けてはならない棺桶ではない。

それはこの鉱脈を掘り進めるための、まだ見ぬ四つの「設計図」なのだ。


 橘は決意した。

この呪いから逃げ出すのではない。

この呪いを理解し、観測し、そして制御下に置く。

そしてこの恐怖そのものを、彼が生涯で手にするであろう最高の「商品」へと仕立て上げるのだ。


 彼は畳に残された泥の足跡を、もはや恐怖の目ではなく鑑定士の目でじっと見つめた。


  「……面白い」


 彼の口から、昨夜とは全く違う意味を込めた乾いた呟きが漏れた。


 「実に、面白い商品じゃないか」

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