第十七話:聞こえる足音
あの呪われた掛け軸を、橘宗一はまるで汚物でも扱うかのように、桐箱の奥深くへと再び封じ込めた。
だが、一度見てしまったものは消えない。
一度知ってしまった恐怖は、彼の精神にあの滲んだ墨のように、黒々とした染みとなって広がっていた。
店はもはや彼にとって、安心できる城ではなかった。
それは呪われた品々を収容する、巨大な収蔵庫へと変貌していた。
店の片隅に立つ鎧兜は、彼が視線を向けるたびにその面頬の奥から、冷たい視線を投げ返してくるように感じられた。
九谷焼の大壺の内側の闇は、水底へと通じているように思えてならなかった。
彼はその日、早々に店を閉めた。
客と顔を合わせる気分ではなかったし、何より、これ以上この呪われた空間に他人を招き入れたくはなかった。
夜になると雨が降り始めた。
初めは金沢の街をしっとりと濡らす、風情のある小糠雨だった。
しかし時間が経つにつれ雨脚は次第に強まり、やがて店の古い瓦屋根を激しく叩きつける土砂降りへと変わっていった。
橘は店の奥にある帳場に一人閉じこもっていた。
彼は恐怖から逃れるように、帳簿の数字と向き合っていた。
仕入れ値、売値、利益率。そこにあるのは嘘をつかない、絶対的な現実だ。
彼はこの乾いた数字の世界に没頭することで、店の隅々にまで染み渡るあのじっとりとした非現実的な恐怖を、意識の外へと追い出そうと必死だった。
雨音は彼の集中を妨げるように、絶えず、そして執拗に耳をついた。
それはもはや単なる雨音ではなかった。
何千、何万という濡れた指が、彼の店を四方八方から休むことなく叩き続けているかのようだ。
その轟音ともいえる雨音の、その向こう側から。
その音が聞こえてきたのは、そんな時だった。
びちゃ。
ごく微かな、しかし明らかに雨音とは異質な音。
それは店の奥、客をもてなすために設えられた畳の間の方角からだった。
橘は筆を動かす手をぴたりと止めた。全身の神経が耳へと集中する。
古い家屋だ。雨漏りの一つや二つ、あってもおかしくはない。
だが、その音は天井から水が滴る音とは決定的に違っていた。
びちゃ。
また聞こえた。
今度は先ほどよりも少しだけ近い。
それは水分をたっぷりと含んだものが畳に押し付けられ、そしてゆっくりと離れる時に立てる、粘り気のある不快な音。
――濡れた、裸足の音だ。
その考えが彼の脳裏をよぎった瞬間、全身の毛が総立った。
店には自分以外、誰もいないはずだ。鍵は全て内側から掛けてある。
びちゃ。びちゃ。
足音はゆっくりと、しかし確実に帳場のあるこちら側へと近づいてきていた。
それは慌てている様子も忍び込んでいる様子もない。
まるでこの店の主であるかのように堂々と、一歩、また一歩と闇の中を進んでくる。
橘は息を殺した。
心臓が警鐘のように胸の内側で激しく鳴り響く。
彼はそっと卓上ランプのスイッチを切った。
店内は雨に濡れた路地から差し込む、ぼんやりとした街灯の明かりだけに照らされ、深い影に包まれる。
彼は帳場のカウンターの下に身を屈めた。
そして、その影の向こう側を食い入るように見つめる。
びちゃ、びちゃ、びちゃ……。
足音は展示スペースを横切り、彼の目の前、カウンターのすぐ向こう側で、ぴたりと止んだ。
しん、と静まり返る。
外の雨音だけが変わらず、世界を叩き続けている。
橘は呼吸さえも忘れていた。
いる。
間違いなく、そこに何かがいる。
カウンター一枚を隔てたすぐ向こうの闇の中に、それは立っているのだ。
濡れた、何かが。
そしてこちらをじっと見ている。
橘はカウンターの下で、震える手で近くにあった鉄製の文鎮を強く握りしめた。
どれくらいの時間が経っただろうか。
一分か、あるいは一時間か。
彼の体感では、永遠にも感じられるほどの時間がその重苦しい沈黙の中で過ぎていった。
だが、それ以上何も起きなかった。
足音も物音も、気配さえも感じられない。
意を決し、橘はゆっくりとカウンターの上から顔を覗かせた。
「……誰も、いない」
店の展示スペースには、闇の中に沈む古美術品たちの影があるだけだった。
人影などどこにもない。
幻聴だったのか。
雨音と恐怖と寝不足が、自分にそんな悪夢を見させたのか。
安堵と、しかし拭いきれない疑念が彼の心の中で渦を巻く。
彼は文鎮を握りしめたまま、ゆっくりとカウンターの外へと出た。
そして、足音が聞こえてきた店の奥の畳の間へと、恐る恐る足を進めていく。
畳の間に続く板張りの廊下。
そこに、あった。
濡れた足跡が。
それはぼんやりとした月明かりの下でも、はっきりと見て取れた。
水だけではない。
黒い泥や腐った葉のようなものが混じった、生々しい足跡。
それが店の奥の薄暗い闇の中からこちらへと、点々と続いていた。
橘はその足跡を、一歩、また一歩とたどっていった。
足跡は畳の間を抜け、展示スペースを横切り、そして彼が先ほどまで蹲っていた帳場のカウンターのすぐ目の前で、ぷっつりと途絶えていた。
そこから先、どこかへ去っていった足跡はない。
ここで、消えたのだ。
橘はその最後の足跡の前に、呆然と立ち尽くした。
それは紛れもない物理的な証拠だった。
何者かがここに侵入し、自分の目の前までやってきて、そして忽然と姿を消したのだ。
彼はゆっくりと、その濡れた足跡に指を伸ばした。
畳に染み込んだ泥はひやりと冷たく、そしてあの川底のような生臭い匂いを放っていた。
彼の脳裏に、あの巻物のおぞましい一節が再び蘇る。
『――それは、川底に沈み、苔むした、巨大な岩そのもの。
そして、その岩の表面には、水にふやけ、白く膨れ上がった光忠殿の顔が、無数に浮かび上がっておった』
橘はもはや、叫び声を上げることさえできなかった。
彼の築き上げてきた現実という名の脆い堤防は、今、完全に決壊した。
そして、その決壊した場所から、泥水のように昏く冷たい絶対的な恐怖が、彼の魂の中へとどうどうと流れ込み始めていた。




