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秘匿葬送記録  作者: 月影 朔


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第十五話:鎧の涙

 九谷焼の大壺を満たしていたあの不可解な泥水を片付けてから、橘宗一の店の空気はどこかよどんだままだった。


 彼は無理やり作った「異常な結露」という理屈の鎧を身にまとい、平静を装って仕事に戻ろうとした。

しかし、その鎧はあまりに脆く、彼の心を覆うには薄すぎた。


 店内にいても、常に背後から誰かに見られているような粘つく視線を感じる。

古美術品たちが放つ静かな存在感が、今は息を潜めた何者かの気配のように感じられてならなかった。


 彼は何度も、あの九谷焼の大壺へと視線をやった。

壺は彼が丹念に拭き清めた通り、静かに、そして空虚にそこに鎮座している。

しかし、その内側の闇が、まるで水底に続いているかのように不気味に深く見えた。


「……いかん、いかん」


 橘はかぶりを振った。

昨夜読んだあの気味の悪い巻物のせいで、神経が過敏になっているだけだ。


 彼は気を紛らわすように、店内の品々の手入れを始めた。

輪島塗の盆を柔らかい布で磨き、伊万里の皿の埃を払う。日常の繰り返しの作業。

それに没頭することで、彼は心の隅に芽生え始めた恐怖の種子から目を逸らそうとしていた。


 そして、彼の足は店の最も奥まった一角で止まった。


 そこには一体の甲冑が、闇の中で静かに佇んでいた。

江戸中期に作られた黒漆塗りの当世具足。

それは橘がこの店を開いた時からずっと店の片隅に立ち続け、客たちの注目を集めてきた看板商品の一つだった。


 兜から伸びる威毛(おどしげ)は色褪せ、鉄製の部品の端々には時代の重みを示す錆が浮いている。


 橘はいつものように、その鎧兜の埃を払おうと布を手に近づいた。

そして何気なく、その顔の部分である面頬(めんぽう)を見上げた、その時だった。


「……ん?」


 彼の目が、面頬に刻まれた勇猛な表情の、その下に一点の黒い染みを見つけた。


 雨漏りか?


 いや、天井は乾いている。

彼はさらに顔を近づけ、その染みの正体を確かめようとした。


 染みではなかった。


 それは、濡れていた。

黒漆塗りの鉄の表面を、一筋の濡れた線がゆっくりと伝っている。

そして、その線はさらに上へと続いていた。


 橘は息を殺しながら、その濡れた筋を目で追った。

筋の起点は、面頬に開けられた呼吸のための小さな穴と、そのすぐ上にある視界を確保するための細い眼窩の隙間だった。


 そこから、赤黒い水が滲み出していた。

それはまるで、この鉄の面頬が涙を流しているかのようだった。

錆の混じった、血のような涙を。


 ぽたり。


 一滴の粘り気のある赤黒い雫が、面頬の顎の先で重力に耐えるように膨らみ、そして音もなく下の胴鎧へと滴り落ちた。


 橘は後ずさりしそうになる足を、必死で踏みとどめた。


 結露だ。

そうだ、これも結露に違いない。

鉄は冷える。

店の湿気が……。


 だが、その理屈は彼の喉の奥で、乾いた音を立てて砕け散った。

結露で、こんな錆の混じった血のような色の水滴が生まれるものか。


 彼はまるで蛇に睨まれた蛙のように、その鎧兜から目を離すことができなかった。

そして、ほとんど無意識のうちにその濡れた筋へと、震える指先を伸ばしていた。


 確かめなくてはならない。

これが現実なのか、それとも自分の精神が生み出した幻覚なのか。


 彼の指先が、面頬を伝うその冷たい一筋に触れた。


「――っひ!」


 短い悲鳴と共に、橘はまるで感電したかのようにその場から飛びのいた。


 冷たい。


 それは単なる金属の冷たさではなかった。

九谷焼の壺を満たしていた、あの泥水と同じ。

氷のように生命の熱を完全に失った、死の冷たさ。彼の指先から体温がごっそりと奪い去られていくような、冒涜的な感触だった。


 そして、その冷たい感触が彼の脳裏に、昨夜の記憶を鮮烈に蘇らせた。


 ――【竹内光忠水難死顕現記録】。


 あの巻物に書かれていた加賀藩の武士。

彼は濁流に飲み込まれた。

その遺体は数日後、遥か下流の海岸で網にかかって発見された。


  『……その身体は、川底の石に何度も打ち付けられ、見るも無惨な姿だったという』 記録の一節が、彼の頭の中で木霊する。

そうだ。

あの武士もまた、鎧を着たまま水に沈んだのではなかったか。

記録を記した僧侶は、その葬儀で棺から滴り落ちる泥水を見たのではなかったか。


 橘の中で、これまで必死で否定し続けてきた二つの出来事が、絶対的な繋がりをもって結びついた。

昨夜自分が読んだ物語。そして今、目の前で起きているあり得ない現象。


 これは偶然ではない。

気のせいなどでは、断じてない。


 あの巻物は、ただの古文書ではない。

あれは、呪いだ。

そして、その呪いが紙の中から這い出してきて、今、この店を静かに侵食し始めているのだ。


 橘は全身の血の気が引いていくのを感じた。

彼の額から脂汗が滝のように流れ落ちる。

彼が商人として生きてきた、論理と計算と現実だけで構成された世界が、足元から音を立てて崩れ落ちていく。


 彼はゆっくりと、しかし恐る恐る、店の奥にある自分の作業机の方へと視線を向けた。

そこにはあの桐箱が静かに置かれている。

中にはまだ読んでいない、四巻の巻物が眠っている。


 もはやそれは、彼の目には一攫千金の夢が詰まった宝箱には見えなかった。

それは、まだ開かれていない四つの小さな棺桶だった。


 そして、店の隅では黒漆塗りの鎧兜が、今もなお、錆の混じった血の涙を、ぽたり、ぽたりと静かに流し続けていた。

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