第十四話:濡れた九谷焼
橘宗一の朝は、いつも決まった時間に決まった手順で始まる。
カーテンを開け、窓から差し込む古都の柔らかな光を店内に招き入れる。
湯を沸かし、濃い目のコーヒーを淹れる。
その香りが、夜の間に店内に沈殿した古い木の匂いや墨の匂いを、ゆっくりと現実に引き戻していく。
それが彼の日常の始まりだった。
その朝も、全てはいつも通りに進むはずだった。
昨夜、あの奇妙な巻物を読んだ後に聞いた「ぽちゃん」という水音。
それは眠りという日常の営みの中に、すっかり溶けて消えていた。
彼はあの音を、古い家屋が立てる気まぐれな物音の一つとして、すでに意識の外へと追いやってしまっていたのだ。
店のシャッターを上げ、外の湿った空気を吸い込む。
金沢の朝はいつも微かな湿り気を帯びている。
彼はその湿気さえも、この街の風情の一部として長年受け入れてきた。
コーヒーカップを片手に、橘は店内の品々を見回るのが日課だった。
埃が溜まっていないか、配置は乱れていないか。
彼の商人としての目は、僅かな変化も見逃さない。
輪島塗の重箱、加賀蒔絵の硯箱、そして彼の店で最も価値のある品の一つである、明治期に作られた九谷焼の大壺。
それは店の最も目立つ場所に置かれた、彼のささやかなプライドの象徴だった。
その日、彼の足はその大壺の前でぴたりと止まった。
「……なんだ?」
何かがおかしい。いつもと違う。
大壺の鮮やかな赤絵や金彩が、心なしかくすんで見える。まるで表面に薄い膜が張られているかのようだ。
彼は眉をひそめながら、その壺へと近づいていった。
そして、その異変の正体に気づいた時、彼は思わず息を呑んだ。
壺が、水で満たされている。
縁のギリギリの部分まで、なみなみと。
その水面は夜の間に注がれたとは思えないほど、不自然に静まり返っていた。
そして、その水は透明ではなかった。
茶色く濁り、底の方には泥のようなものが沈殿しているのが見える。
橘の思考は一瞬、停止した。
何が起きているのか理解が追いつかない。
彼はまず、最もあり得る可能性を潰しにかかった。雨漏りだ。
彼はすぐさま大壺の真上の天井を見上げた。
だが、そこにあるのは乾いた木目の天井板だけ。
染み一つない。
彼は脚立を持ってくると天井裏まで覗き込んだが、そこに水気は一切なかった。
「……馬鹿な」
では、誰かが侵入したのか。
橘は店中の鍵と窓を、一つ一つ神経質に確認して回った。
だが、全ての鍵は昨夜、彼自身が内側から掛けたままの状態だった。
警報装置に異常はない。
店内の他の品々が荒らされた形跡も、何か金目のものが盗まれた様子も全くない。
ただ、この九谷焼の大壺だけに、泥水が満たされている。
橘は柄杓を手に取ると、恐る恐る壺の中の水を掬い上げた。
鼻を近づけると、ツンとした、古い井戸や湿った地下室のような匂いがした。
それは水道水ではあり得ない、有機的で生命の気配を失った水の匂いだった。
「……いったい、誰が、何のために」
彼の思考は次に、最も現実的な悪意へと向かった。嫌がらせだ。
彼を妬む同業者の誰かの仕業に違いない。
だが、どうやって?
この厳重な鍵を破り、ただ壺に水を注ぐためだけに侵入し、そして何の痕跡も残さずに立ち去る。
そんな馬鹿げたことがあるだろうか。
それに、この水だ。
こんな泥水を一体どこから運んできたというのだ。
論理的な説明が一つ、また一つと消えていく。
彼の心の中に、昨夜聞いたあの些細な、しかし今はひどく不吉に響く音が蘇ってきた。
――ぽちゃん。
あの音は、これだったのか。
この壺に何かが落ちた音だったのか。
橘は首を横に振った。
ありえない。
そんな非科学的なことがあるものか。
彼は無理やり、別の可能性を探し始めた。
「……そうだ、湿気だ」
彼は自分に言い聞かせるように呟いた。
金沢は湿度の高い土地だ。特にこの時期は、夜と朝の寒暖差で結露がひどくなる。
この壺は磁器だ。冷えやすい。
その冷えた表面に一晩かけて、店内の空気中の水分が異常なレベルで結露したのではないか。
そして天井や壁から染み出した埃や汚れがその水に混じり、泥水のように見えているだけではないのか。
あまりに苦しいこじつけだった。
彼自身、その説明に何の説得力もないことを心のどこかでは理解していた。
だが、今の彼にはそう思うことしか正気を保つ術がなかったのだ。
「……ちくしょうが」
橘は悪態をつきながら、壺の水を慎重に一杓ずつバケツへと移し始めた。
高価な品だ。
もしこの泥水によって内側に染みでもできてしまえば、その価値は暴落する。
彼は何時間もかけて全ての水を汲み出し、そして柔らかい布で壺の内側を何度も、何度も丁寧に拭き清めた。
ようやく元の輝きを取り戻した大壺を、彼は再び元の場所へと戻す。
だが、一度狂った日常の歯車はもう元には戻らない。
彼の店はいつもと同じ顔をして静まり返っている。
しかしその空気は、もはや昨日までのそれとは決定的に違っていた。
じっとりと肌にまとわりつく湿気は、ただの天候のせいではない。何かの「気配」がこの空間に溶け込んでいる。
橘は拭き清めたはずの大壺から、作業机の上に置かれたあの古い桐箱へと視線を移した。
二つの、本来ならば何の関連もないはずの物が、彼の頭の中で見えない線で繋がり始めていた。
彼はその不吉な予感を、首を振って無理やり追い払った。
気のせいだ。全ては、気のせいだ。
彼はそう、自分に強く言い聞かせた。




