表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
秘匿葬送記録  作者: 月影 朔


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

58/101

第十三話:最初の断章

 橘美術の営業時間は、とうの昔に過ぎていた。

ひがし茶屋街へと続く路地は、濡れた石畳がガス灯の淡い光を反射し、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っている。


 橘宗一は、店のシャッターをガラガラと下ろすと、内側から重い閂を掛けた。

これで、彼と、彼が能登の廃寺から連れてきたガラクタの山だけの、静かな時間が始まる。


 店の中は、彼の仕事机に置かれた卓上ランプの、橙色の光だけが灯っていた。

その光は、周囲に積み上げられた古美術品たちの輪郭を、ぼんやりと闇の中に浮かび上がらせている。


 埃と、古い木と、墨の匂い。

その、いつもと変わらないはずの店の空気が、今夜は、なぜか少しだけ、ひんやりと感じられた。


 橘は、椅子に深く腰掛けると、目の前に置かれた桐箱へと手を伸ばした。

昼間、あのガラクタの山の中から見つけ出した、曰く付きの宝物。彼の心は、商人の興奮で、わずかに高揚していた。


 彼は、桐箱の蓋を静かに開けた。

再び、あの古い紙と、冷たい土の匂いが、ふわりと立ち上る。


 箱の中に眠る五巻の巻物。

そのうちの一巻を、彼は慎重に手に取った。

ひやり、とした和紙の感触が、彼の指先に馴染む。

濃紺の真田紐を、ゆっくりと解いていく。


 巻物を机の上に広げると、息を呑むほどに美しい、しかし、どこか尋常ではない気迫に満ちた墨痕が、彼の目に飛び込んできた。


【極秘】秘匿葬送記録

 事案名:竹内光忠水難死顕現記録


「竹内光忠……。

加賀藩の武士か」


 橘は、呟きながら、その本文へと目を走らせた。

彼の鑑定の目が、紙質、墨の色、そして筆致から、その巻物が書かれたであろう時代を、瞬時に推測していく。

江戸中期、宝暦の頃か。

これは、思った以上の年代物かもしれん。


 巻物に記されていたのは、ある悲劇的な物語だった。

加賀藩に仕える、竹内光忠という実直な武士が、大雨で増水した犀川の氾濫を鎮めるため、人足たちを率いて堤防の補強にあたっていた。

しかし、不運にも足を滑らせ、濁流へと飲み込まれてしまう。


 遺体は、数日後、遥か下流の海岸で、網にかかっているのが発見された。

その身体は、川底の石に何度も打ち付けられ、見るも無惨な姿だったという。


 橘は、そこまで読んで、ふむ、と一度頷いた。

悲劇ではあるが、よくある話だ。

問題は、ここから先。


 竹内の葬儀は、彼が生前菩提寺としていた、市内の寺で執り行われた。

だが、通夜の読経が始まったその時から、異変は起きた。


 雨はとっくに上がっていたはずなのに、本堂の床が、まるで川の水が染み出してきたかのように、じっとりと濡れ始めたのだという。

そして、参列者たちは、どこからともなく、川の生臭い匂いと、水が渦巻くような不気味な音を耳にした。


 告別式の日、怪異はさらに激しくなる。

棺を担ぎ出そうとした際、それが、まるで水底の岩に根を張ったかのように、異常に重くなった。

そして、棺の蓋の隙間からは、泥の混じった水が、絶えず滴り落ちていたという。


 この記録を記した僧侶は、その時の恐怖を、こう綴っていた。


『――その時、わしの眼には、棺が、ただの木箱には見えなんだ。

それは、川底に沈み、苔むした、巨大な岩そのもの。

そして、その岩の表面には、水にふやけ、白く膨れ上がった光忠殿の顔が、無数に浮かび上がっておった。

その全ての目が、虚ろに、わしを見上げておったのじゃ……』


 橘は、その生々しい描写に、思わず眉をひそめた。

背筋のあたりが、ぞくりと粟立つ。

店の空気が、また一段と、冷たくなったような気がした。彼は、無意識に、自分の腕を擦っていた。


 だが、すぐに、彼の思考は、商人のそれへと切り替わった。


 ――面白い。


 実に、面白い逸話ではないか。

加賀藩の武士にまつわる、悲劇の怪談。

この『秘匿葬送記録』が、もし本物であるならば。


 この物語を添えて売りに出せば、好事家たちは、喉から手が出るほど欲しがるだろう。

値段は、いくらでも吊り上げられる。

橘の頭の中では、すでに、算盤の珠が、目まぐるしい速さで弾かれていた。


 彼は、巻物の最後まで読み通すと、その内容に満足し、ゆっくりと、それを巻き戻していった。

そして、再び真田紐で丁寧に結び、桐箱の中へと、そっと戻す。


「ふぅ……」


 橘は、椅子にもたれかかり、満足のため息をついた。

能登の廃寺まで足を運んだ甲斐があったというものだ。

彼は、残りの四巻にも、期待に満ちた視線を送った。


 その、静寂に満ちた店内に、その音が響いたのは、まさに、その瞬間だった。


 ぽちゃん。


 店の奥。九谷焼や輪島塗を並べた、メインの展示スペースの方からだった。

まるで、小さな石を、水面へと落としたかのような、明瞭な、しかし、場違いな水音。


「……?」

 橘は、顔を上げた。


 全身の神経が、音のした方角へと集中する。

彼は、息を殺し、耳を澄ませた。


 しん、と静まり返った店内には、古時計が時を刻む音と、自分の心臓の音だけが聞こえる。


「……気のせいか」

 橘は、小さく呟いた。


 古い木造家屋だ。

夜になれば、木が軋む音の一つや二つ、聞こえてもおかしくはない。

水道管の音か、あるいは、外の路地を、野良猫でも通り過ぎたのかもしれない。


 そうだ、きっとそうだ。

気にするほどのことではない。


 彼は、気味の悪い物語を読んだ後で、神経が過敏になっているだけだろうと、自分に言い聞かせた。


 彼は、立ち上がると、卓上ランプのスイッチを消した。

月明かりだけが、窓から差し込み、店内に並べられた古美術品たちの、不気味な影を床に落としている。


 橘は、その影を踏みしめながら、店の奥にある住居スペースへと向かう。

先ほどの水音のことは、もう、彼の意識の外へと追いやられていた。


 彼の頭の中は、明日、どの巻物から読み始めるか、そして、それを、いくらで売るか、という計算で、すでにいっぱいだったのだから。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ