第十一話:古都の古物商
久坂理人という民俗学者の死は、都市の片隅で起きた不可解な事故として、やがて人々の記憶から薄れていった。
彼が書き記した最後の記録もまた、差出人不明の指示に従った僧侶の手によって、どこか人知れぬ場所へと秘匿され、呪いの連鎖は、その水面下で、次なる宿主を求めて静かに流れ続けていた。
石川県、金沢市。
ひがし茶屋街の風情ある街並みから一本路地を入った場所に、橘美術という古美術店はあった。
店主の橘宗一は、濡れた石畳を眺めながら、カウンターの奥で黙々と算盤を弾いている。
金沢特有の、湿り気を帯びた空気が、店内に満ちる古い木と墨の匂いを、より一層濃密にしていた。
橘は、学者ではない。好事家でもない。彼は商人だった。
埃をかぶったガラクタの山の中から、一分の価値を見出し、それを十倍の値段で売りさばくことに、何よりも生き甲斐を感じる男だった。
彼の目は、物の持つ歴史や芸術性ではなく、その値札の数字だけを正確に捉える。
信心など、とうの昔に算盤の珠と一緒に弾き出してしまっていた。
店の電話が鳴ったのは、そんな午後の気だるい時間だった。
「……もしもし、橘美術です」
受話器の向こうから聞こえてきたのは、雑音に混じった、ひどく弱々しい老人の声だった。
「……あのう、古美術の、橘宗一さん、でしょうか」
「左様ですが。何か御用件で?」
「わしは……
能登の山奥で、寺の住職をしております、山岡と申します。
実は、ご相談したいことが……」
声は途切れがちで、ひどく遠い場所から話しているかのようだった。
橘は、面倒そうな案件だと眉をひそめたが、とりあえず話だけは聞くことにした。
山岡と名乗る老僧の話を要約すれば、こうだ。
檀家もいなくなり、寺の維持がもはや不可能になった。
ついては、寺の蔵に眠っている品々を、蔵ごとまとめて買い取ってはもらえないだろうか、と。
「蔵ごと、ですか」
橘の商人の勘が、ぴくりと動いた。
蔵ごと、という話は、ハイリスク・ハイリターンだ。
大半がガラクタでも、その中に一つでも本物が紛れていれば、莫大な利益になる。
そして何より、電話口の声には、隠しきれないほどの焦りと、金銭に困窮している者の、悲痛な響きがあった。
「どのような品が?」
「……古い仏像や、掛け軸、それから……先代が集めていた、ようわからん巻物などが、ごちゃごちゃと……。
わしには、もう、よう価値がわかりまへんので」
「なるほど」
橘は、口元に笑みを浮かべた。
足元を見るには、絶好の機会だった。
彼は、わざとため息をついてみせると、同情するような声色で言った。
「そうですか。まあ、昨今は不景気ですからな。
正直、廃寺同然の寺の蔵となると、値が付くものはほとんどないでしょう。
交通費と手間賃で、赤字になるのが関の山ですが……
まあ、お困りのようですし、一度、見に行くだけ、行ってみましょうか」
数日後、橘は軽トラックを借り、能登半島の奥深くへと車を走らせた。
金沢の洗練された街並みはすぐに途切れ、車は、日本海の荒波が打ち寄せる、寂れた海岸線沿いの道を進んでいく。
空は低く垂れ込め、霧雨がフロントガラスを絶えず濡らしていた。
カーナビが示した終着点は、車一台がやっと通れるような、細く、苔むした山道の先だった。
鬱蒼と茂る杉木立に囲まれ、昼間だというのに薄暗い。その道の終わりに、問題の寺は、まるで長い年月、誰にも思い出されることなく、ただ朽ちるのを待っていたかのように、ひっそりと佇んでいた。
屋根瓦は崩れ落ち、柱は傾き、庭には背の高い雑草が生い茂っている。
橘を出迎えた住職の山岡は、電話の声で想像した通りの、痩せこけた老人だった。
その目は虚ろで、橘の顔をまともに見ようとしない。
「……ようこそ、おいでくださいました。こちらへ」
山岡は、橘を本堂の裏手にある、古びた土蔵へと案内した。
ぎ、と重い音を立てて扉が開かれると、カビと、湿った土と、そして、何十年も澱んだままの空気の匂いが、むわりと溢れ出してきた。
蔵の中は、まさにガラクタの山だった。
欠けた茶器、作者不明の掛け軸、そして、用途のわからない農具のようなものまで、所狭しと積み上げられている。
橘は、その中から価値のあるものを探し出す狩人の目で、品々を素早く鑑定していった。
ほとんどは、値段の付かない廃物だ。
だが、いくつか、骨董市で捌けば小遣い稼ぎにはなりそうなものが、彼の目に留まった。
「……どうですかな」
山岡が、おずおずと尋ねる。
「うーん……」
橘は、わざとらしく腕を組んだ。
「正直なところ、厳しいですな。
これを全て処分するだけでも、かなりの費用がかかる。
まあ、これも何かのご縁。
わたしが赤字覚悟で、全て引き取りましょう。
その代わり、お代は、まあ、これくらいで」
橘が提示したのは、無慈悲とさえ言えるほどの、二束三文の金額だった。
だが、山岡は、その金額を聞いても、表情一つ変えなかった。
それどころか、まるで重荷から解放されたかのように、安堵のため息を漏らしたのだ。
「……それで、結構です。
どうか、全て、お持ちください」
その様子に、橘は、自分の目利きが正しかったと、内心でほくそ笑んだ。
この老人は、本当に、金に困り果てていたのだ。
契約は、すぐに成立した。
橘は、手伝いのアルバイトと共に、蔵の中身を、埃も、カビも、そこに宿る時間も、全てまとめて軽トラックの荷台へと積み込んでいく。
作業を終える頃には、西の空が、わずかに茜色に染まり始めていた。
橘は、山岡に代金を渡し、そそくさと寺を後にした。
去り際、バックミラーに、山門の前で、深々と頭を下げ続ける老僧の姿が映っていた。
その姿は、感謝しているというよりは、まるで、厄介払いができて、心底ほっとしているかのようにも見えた。
金沢への帰り道、橘は上機嫌でハンドルを握っていた。
あのガラクタの山の中から、いくつの宝物を見つけ出せるか。
彼の頭の中は、これから始まる宝探しの興奮と、利益の計算でいっぱいだった。
彼は、まだ知らない。
あの蔵の奥深くに眠っていた、本当の「曰く付き」が、今、彼の店の、そして、彼の人生の中心へと、静かに運び込まれようとしていることを。
荷台で揺れるガラクタの山の中で、一つの古い桐箱が、ことり、と音を立てたことにも、彼は、気づいていなかった。




