第十話:久坂理人葬送怪異記録
その日、川崎市立斎場の空気は、梅雨明け後の粘りつくような湿気と、線香の乾いた香りが混じり合い、重く淀んでいた。
僧侶の寺沢は、祭壇の前に座し、静かに目を閉じていた。
今日、彼が導く魂は、久坂理人という、三十代半ばで見知らぬ土地の地下で奇妙な死を遂げた民俗学者。
身寄りは少なく、参列者は、年老いた両親と、大学時代の同僚や恩師が数名だけという、寂しい葬儀だった。
寺沢自身、この葬儀には、普段とは違う、言い知れぬ緊張を覚えていた。
数日前、本山を通じて、差出人不明の書状が届いたのだ。
そこには、ただ「八月四日、久坂理人の葬儀を滞りなく執り行うべし。ただし、その場にて何らかの異変ありし時は、動揺せず、ただその眼に焼き付け、些細なことまで記憶せよ。追って、記録の手順を指示する」とだけ、美しい、しかし冷たい筆致で記されていた。
悪趣味ないたずらか、あるいは、故人の死にまつわる何らかのトラブルか。
寺沢は、不審に思いながらも、僧侶としての務めを果たすべく、心を無にしようと努めていた。
白木の棺、菊の花、そして、穏やかに微笑む遺影。
どこにでもある、人の死を悼むための、静かな空間。
寺沢は、ゆっくりと息を吸い込むと、重々しい声で読経を始めた。
「ぶっそうちゅうしゅ、みょうほうれんげ……」
彼の声が、しんと静まり返った斎場に響き渡る。
参列者たちは、皆、固い表情で俯き、故人との別れを惜しんでいた。
全ては、滞りなく進むはずだった。
その異変は、読経が中盤に差し掛かった頃、唐突に訪れた。
ピロン。
静寂の中、場違いな電子音が、どこかの席から響いた。
参列者の一人が、慌ててスマートフォンの電源を切ろうと、ポケットを探る。
だが、それを皮切りにしたかのように、次々と、別の席から、また別の席から、異なるメーカーの、異なる通知音が、不協和音となって斎場の空気を満たし始めたのだ。
「なんだ……?」
「すみません、私じゃ……」
参列者たちの間に、戸惑いの囁きが広がる。
彼らは一斉に、それぞれのスマートフォンを取り出し、その画面を見て、言葉を失った。
寺沢は、読経を続けながらも、目の前の光景に眉をひそめる。
喪服に身を包んだ人々が、一様に、自分の手の中にある小さな硝子の板に釘付けになっている。
その顔は、困惑から、やがて、じわりと恐怖の色へと変わっていった。
彼らの顔を、スマートフォンの冷たい光が、青白く照らし出している。
その全ての画面に、全く同じ映像が、再生されていた。
それは、暗く、狭い、コンクリートのトンネルを、主観視点で進んでいく映像だった。
手ぶれがひどく、見ているだけで酔いを催しそうだ。
聞こえてくるのは、反響する水の滴る音と、「はっ、はっ」という、誰かの荒い呼吸音だけ。
その映像には、どこか既視感があった。
数週間前にニュースで見た、あの、久坂理人が発見されたという、治水トンネルの内部映像に酷似していた。
映像は、ゆっくりと、排水管の暗い奥へと進んでいく。
そして、光の届かない、完全な闇に包まれた瞬間、ぷつり、と途切れた。
「ひっ……!」
誰かの、短い悲鳴が聞こえた。
その瞬間だった。
シューッ、という、空気が圧縮されるような音が、斎場の天井から響き渡った。
次の瞬間、天井に埋め込まれたスプリンクラーのヘッドから、勢いよく水が噴射され始めたのだ。
一つ、また一つと、全てのヘッドが誤作動を起こし、冷たい水のシャワーが、参列者たちの頭上へと、容赦なく降り注ぐ。
火災報知器のけたたましい警報音が、読経の声を完全に掻き消した。
悲鳴と怒号が入り乱れ、人々は濡れたスーツや喪服のまま、右往左往する。菊の花は水圧で無惨に散り、線香の煙は、立ち上る前に冷たい水に叩き落とされ、消えていった。
人の死を悼む神聖な場は、一瞬にして、冒涜的な水遊びの場へと変貌した。
寺沢は、ずぶ濡れになりながらも、その場に立ち尽くしていた。
本能的な恐怖と、僧侶としての務めとの間で、彼の精神は引き裂かれそうになっていた。
彼は、混乱する斎場から、ふと、祭壇へと視線を戻した。
そこに、あった。
白木の祭壇に飾られた、久坂理人の遺影。
その額縁は、すでに水滴で濡れていた。
だが、問題はそこではない。
写真の中の、穏やかに微笑んでいるはずの、故人の「瞳」。
その両の瞳が、まるで、小さな水たまりであるかのように、きらきらと、揺らめいて見えたのだ。
それは、印刷されたインクの光沢などではない。
斎場の非常灯の赤い光を反射し、まるで、内側に本物の水が満たされているかのように、潤み、揺らめき、そして、こちらをじっと、見つめ返している。
写真の中の男は、まるで、今まさに、水の底から、この世の光景を眺めているかのようだった。
寺沢は、全身の血が凍りつくのを感じた。
あれは、ただの写真ではない。
あれは、水底へと続く、「窓」だ。
やがて、スプリンクラーは、その役目を終えたかのように、ぴたりと止まった。
水浸しになった斎場には、人々の嗚咽と、滴り落ちる水の音だけが残された。
数日後。
寺沢は、自坊の書院で、一人、墨を磨っていた。
彼の前には、真っ白な和紙の束が置かれている。
あの日以来、彼のもとには、再び差出人不明の書状が届き、そこには、記録を残すための、詳細な手順と様式が記されていた。
恐怖に、指が震える。
あの遺影の瞳が、脳裏に焼き付いて離れない。
だが、彼は書かなければならなかった。
これは、彼に課せられた、新たな務めなのだ。
彼は、震える筆を手に取ると、意を決して、和紙の最初の行に、その表題を書き記した。
【極秘】秘匿葬送記録:伍拾六ノ巻
事案名:久坂理人葬送怪異記録




