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秘匿葬送記録  作者: 月影 朔


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第八話:狂者の逃走

 闇。


 氷のように冷たく、墓場のように静かな水が、久坂理人の胸を圧迫していた。

儀式は失敗した。

あの蜘蛛の糸のような微かな希望は、より太く、より強固な絶望の綱となって、彼の魂に絡みついている。


 壁に浮かび上がった死者たちの顔は闇に消えたが、その無数の視線だけは、見えない棘のように、彼の全身に突き刺さっていた。


「う……ぅ……」

 闇の向こうから、老僧のか細い呻き声が聞こえる。


 あの声が、久坂を現実へと引き戻した。

助けなくては。

あの老僧は、自分を救おうとしてくれたのだ。


 久坂は、重く冷たい泥水の中を、壁際に倒れる老僧の元へと必死に進んだ。

水は、彼の動きを妨げるように、粘り気をもってまとわりついてくる。


「大丈夫ですか」


 ようやく辿り着いた老僧の身体は、ぐったりとして力なく、その呼吸は浅く、速い。 泥水に濡れた衣は、まるで彼の命を吸い取っているかのように、ひどく重かった。


 久坂がその肩に手をかけると、老僧は苦痛に顔を歪めながら、ゆっくりと目を開けた。


「……逃げよ」

 老僧は、血の混じった咳をしながら、か細い声で囁いた。


 「儀式は……

奴を、怒らせただけじゃった。

もはや……ここも、安全ではない。早う、ここから……」


 その言葉を聞いた瞬間、久坂の中で、何かがぷつりと切れた。


 安全ではない?

ここから逃げろ?

この老人はいったい、何を言っているのだ。


 久坂の脳裏に、儀式が始まる前の、老僧の言葉が蘇る。

『おぬしは、確かに深く汚染されておる』

『何もしなければ、おぬしはじきに、あの男のようになる』。


 そうだ。

この老人は、全てを知っていたのだ。

自分が『雨濡』に汚染されていることも、この寺に来ることも、そして、この儀式が失敗することさえも。


 壁に浮かび上がった、あの無数の顔。

あれは、本当に死者の顔だったのだろうか。

違うのではないか。

あれは、この老人が見せた幻覚だったのではないか。

自分をこの寺に縛り付け、藤原泰然のように、新たな「観測対象」として飼い殺しにするための、手の込んだ罠だったのではないか。


「……罠、だったんですね」


 久坂の口から、自分のものではないような、低く、冷たい声が漏れた。


「え……?」

 老僧が、怪訝な顔で久坂を見上げる。


 その顔が、ひどく歪んで見えた。

憐憫を浮かべていたはずの瞳が、今は嘲笑の色を帯びているように見える。


「最初から、助ける気などなかった。

俺をここに閉じ込めて、あの藤原泰然のように、じっくりと観察するつもりだったんだ。

そうだろ!」


「何を……言うておる……正気か……」


「正気だ!

俺はあんたたちの思惑通りにはならない!」


 久坂の精神は、儀式の失敗という絶大な負荷によって、完全に崩壊していた。

目の前の、自分を救おうとして深手を負った老人さえも、自分を陥れようとする怪異の一部にしか見えなくなっていたのだ。


 疑心暗鬼は、真っ黒なインクのように彼の心を染め上げ、全ての善意を悪意へと反転させていく。


「お前たちが俺をここに閉じ込めるんだ!」


 久坂は、獣のような叫び声を上げると、弱々しく横たわる老僧の身体を、力任せに突き飛ばした。


 「ぐっ…」という短い呻き声を上げて、老僧の身体は再び泥水の中へと沈む。

久坂は、そんな師を振り返りもせず、闇の中を、洞窟の出口へと向かって突き進んだ。


 背後で、老僧が何かを叫んでいるような気がした。

「待て……そっちではない……外は……」


 だが、その声は、今の久坂には届かない。

彼の頭の中では、「逃げろ」という本能と、「殺される」という妄想だけが、けたたましく鳴り響いていた。


 彼は、腐りかけた階段を駆け上がり、泥と苔にまみれた廊下を走り抜け、本堂へと転がり出た。


外は、いつの間にか、凄まじい豪雨に見舞われていた。

バケツをひっくり返したような雨が、崩れかけた寺の屋根を激しく打ち付け、その音は、まるで天が怒り狂っているかのようだった。


「はは……はははは!」

 久坂は、狂ったように笑い出した。


 この雨こそが、自分をここから解放してくれる天の助けなのだと、本気で信じていた。

あのジメジメとした、淀んだ寺の空気から逃げられる。

あの老人の、粘つくような視線から、自由になれる。


 彼は、本堂の格子戸を蹴破るように開け放つと、迷わず、豪雨が降りしきる闇の中へとその身を投じた。

冷たい雨が、彼の燃えるような身体を叩き、思考をさらに混乱させていく。

ぬかるんだ地面に足を取られ、何度も転びそうになりながら、彼はひたすら、寺から離れることだけを考えて走り続けた。


 本堂の暗がりから、深手を負った老僧が、這うようにして戸口までやってきた。

彼は、闇の中をよろめきながら走り去っていく、小さな背中を見つめる。


 その背中には、以前よりも遥かに濃く、そして大きく、実体を伴ったかのような「水の影」が、まるで濡れた外套のように、ぴったりとまとわりついているのが見えた。


 儀式の失敗は、「雨濡」を祓うどころか、その封印を解き放ってしまったのだ。

久坂は、もはや単なる被観測者ではない。

彼は、濃縮された呪いそのものを身にまとい、それを外の世界へと運び出す、歩く災厄と化してしまった。


「……あぁ……」


 老僧の口から、血の混じった、絶望のため息が漏れた。

彼は、去っていく久坂の背中に向かって、伸ばしかけた手を、力なく下ろす。


 もう、彼に届く言葉はない。彼を救う術もない。


 豪雨の音に混じって、久坂の狂ったような笑い声が、闇の向こうから、いつまでも聞こえてくるようだった。

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