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秘匿葬送記録  作者: 月影 朔


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第七話:破邪の儀

 老僧の問いかけが、湿った空気に重く響いた。


 久坂の目の前には、二つの道が示されていた。

一つは、緩やかで、しかし確実な狂気と崩壊への道。

もう一つは、一瞬で全てを失うかもしれない、しかし、僅かな光が差す可能性のある、茨の道。


 背後からは、今も、藤原泰然の「うだれ……」という呻き声が、地の底から響いてくるようだった。

あれが、待つ者の末路。


「……お願いします」


 久坂の声は、自分のものではないかのように、乾いてひび割れていた。

だが、その声には、恐怖の底から絞り出した、確かな意思が宿っていた。


「それに、賭けます」


 老僧は、何も言わずに一度だけ深く頷くと、蝋燭を手に、久坂を寺のさらに奥深くへと導いた。

そこは、もはや人の住まう領域ではなかった。


 腐り落ちた床板の下には、黒い土が剥き出しになり、壁からは常に水が滴り落ちて、そこにはびっしりと黒い苔が密生している。

強烈な黴と、淀んだ水の匂いが鼻をついた。


 軋む階段を降り、地下へと続く石の通路を進む。

空気は次第に冷たさを増し、まるで巨大な生き物の喉の奥へと下っていくような錯覚に陥った。


 やがて、通路の先に、岩をくり抜いて作られたかのような、粗末な木の扉が現れた。

老僧がその扉を開けると、ひやりとした、洞窟特有の空気が彼らを包み込んだ。


「ここが、『水底の間』じゃ」


 中は、自然の洞窟をそのまま祭壇として利用したような空間だった。

広さは六畳ほど。

中央には、人が一人座れるくらいの、ひときわ大きく、平らな岩が鎮座している。その岩の根元からは、ごく僅かに水が湧き出ており、それが洞窟の床を常に濡らしていた。


 壁は、何千年もの時間をかけて形成されたであろう、鍾乳石のような凹凸に覆われ、その表面を絶えず水滴が伝って流れ落ちている。


「その中央の岩へ。

そして、何があっても、心を無にせよ。

何を見ても、何を聞いても、決して動いてはならん。

おぬしの魂が、ここで持ちこたえられるかどうか……

全ては、それに懸かっておる」


 久坂は、言われるがままに、中央の岩の上に正座した。

岩は、氷のように冷たく、その冷気が衣服を通して、皮膚から骨の髄まで浸透してくるようだった。


 老僧は、久坂の前に立つと、懐から取り出した数珠を手に、静かに目を閉じた。

そして、彼の口から、これまで久坂が聞いたこともないような、古く、重々しい言葉が紡がれ始めた。


 それは経文というよりは、もっと原始的な、土地の神に語りかけるような、力強い言霊の連なりだった。

声は洞窟の中に反響し、空気がびりびりと震える。


 儀式が始まったのだ。


 久坂は、言われた通りに目を閉じ、精神を集中させようと試みた。

不思議なことに、老僧の読経が始まってから、彼の肩に重くのしかかっていた、あの湿った圧迫感が、少しだけ和らいでいくように感じられた。

背中にまとわりついていた「水の影」が、ゆっくりと剥がされていくような、微かな解放感。


 ――助かるかもしれない。


 その淡い希望が、久坂の胸に芽生えた、まさにその瞬間だった。


 ごぽり。


 洞窟のどこかから、水が泡立つような、不吉な音が聞こえた。

老僧の読経が、一瞬だけ、僅かに乱れる。

音の発生源は、久坂が座る岩の根元、あの小さな泉からだった。


 ごぼ、ごぼごぼ……!


 音は次第に大きくなり、泉から湧き出る水の量が、明らかに増え始めた。

それは、清らかな湧き水などではなかった。

黒く濁り、泥の匂いを放つ、粘り気のある水。

それが、あり得ない勢いで湧き出し、洞窟の床をみるみるうちに覆い尽くしていく。


「――っ!」


 老僧の読経の声に、苦悶の色が混じり始める。

儀式の力が、穢れを祓うのではなく、逆に、久坂の中に潜む「雨濡」を呼び覚まし、その力を増幅させるための贄と化しているのだ。


 黒い泥水は、あっという間に久坂の足首を浸し、その氷のような冷たさが、彼の肉体を直接蝕んでいく。

そして、水嵩が増すにつれて、洞窟の壁に、異変が現れ始めた。


 濡れた岩肌の、水垢のように黒ずんだ部分が、まるで生き物のように蠢き、ゆっくりと形を変えていく。

それは、人の顔の形を成し始めた。


 最初に現れたのは、小さな子供の顔だった。

その隣には、川を愛し、川と一つになった女の顔。

水に濡れそぼり、苦悶に歪んだ顔、顔、顔……

久坂が記録で読んできた、全ての死者たちの顔が、次々と水垢の染みとして壁一面に浮かび上がり、その虚ろな目で、一斉に、久坂を凝視していた。


 洞窟の中は、もはや老僧の読経の声だけではなかった。

壁の顔という顔が、声なく口を開き、そこから無数の囁き声が、水音と混じり合って久坂の脳に直接流れ込んでくる。


 「くるしい」


 「つめたい」


 「なぜわたしだけ」。


 それは、水底に沈んだ魂たちの、終わることのない慟哭だった。


 泥水は、すでに久坂の腰のあたりまで達し、その流れは渦を巻き始めていた。


 老僧は、顔を蒼白にさせ、全身から汗を噴き出しながらも、必死に経文を唱え続けている。

だが、その声は、渦巻く水音と死者たちの嘆きの中に、かき消されそうになっていた。


「南無、大師遍照金剛……!」


 老僧が、最後の力を振り絞るように、真言を叫んだ、その時だった。


 中央の泉から、巨大な黒い水の塊が、まるで意思を持った獣のように、高く噴き上がった。

それは、老僧の身体に、真正面から叩きつけられた。


「ぐ、ぁっ……!」


 短い悲鳴と共に、老僧の痩せた身体は、木の葉のように宙を舞い、洞窟の壁に叩きつけられ、ぐしゃり、という鈍い音を立てて泥水の中へと沈んでいった。


 蝋燭の灯りが、水飛沫を浴びて、ぷつり、と消える。


 完全な闇と、静寂が訪れた。

あれほど激しかった水の勢いは、嘘のように止まっている。

渦巻いていた泥水は、今はもう、久坂の胸のあたりで、墓場のように静かに、ただ揺蕩っているだけだった。


 壁に浮かび上がっていた死者たちの顔も、今はもう見えない。

だが、その無数の視線だけが、闇の中で、より強く、久坂に突き刺さっているのを感じた。


 儀式は、終わったのだ。


 完全に、失敗した。


 闇の向こうから、老僧のか細い呻き声が、一度だけ聞こえた。

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