第六話:絶望の網
老僧の最後の言葉は、冷たい刃のように久坂理人の心臓を貫いた。
「あまりに多くを、知りすぎた」。
その宣告は、藤原泰然の呻き声と、湿った蔵の腐臭と混じり合い、逃れようのない絶望の網となって彼を絡め取った。
目の前の、かつて人間だったものが辿った末路。
それが、自分の未来。
思考は麻痺し、足は泥の床に縫い付けられたかのように動かなかった。
老僧は、恐怖に凍りついた久坂の顔を、古井戸の底のような瞳で静かに見つめていた。
その表情からは、先ほどの冷徹な光が消え、代わりに、何十年という歳月をかけて刻み込まれた深い疲労と、諦念にも似た悲しみが滲み出ていた。
彼は、重々しい閂を再び扉に掛けると、ふう、と長く、か細い息を吐いた。
それは、判決を言い渡した後の、疲れ果てた裁判官のため息のようだった。
「……わしは、おぬしを裁くためにここにおるのではない」
蝋燭の灯りが揺れる茶室に戻ると、老僧はぽつりと、そう呟いた。
その声には、先ほどとは違う、微かな温度が宿っていた。
「墓守り、観測者……そう言ったな。
あれは、嘘ではない。
じゃが、全てでもない」
老僧は、震える手で茶を淹れ始め、その湯気の向こうで言葉を続けた。
「わしは、ただ見ているだけではない。
我々は……
この呪いを、なんとかしようとしてきた者たちの、末裔なのじゃ」
久坂は、顔を上げることができなかった。
ただ、老僧の言葉だけが、彼の麻痺した意識に染み込んでいく。
「この『雨濡』という怪異は、古くからこの国の水辺に、葬儀という儀式の影に、潜み続けてきた。
ある時は土地神の祟りとして、ある時は得体の知れぬ疫病として、人々を水底に引きずり込んできた。
そして、その度に、我々のような立場の人間が、名もなき犠牲者たちの葬儀で、その異変に直面してきたのじゃ」
老僧は、湯呑みを久坂の前に静かに置いた。
「『秘匿葬送記録』……
おぬしは、あれを呪われた儀式の教本か何かと思うたか?
違う。全く違う。
あれは、我々の……我々の敗北の記録じゃ」
その言葉に、久坂ははっと顔を上げた。
「あれは、各地で『雨濡』に遭遇し、なすすべもなく、ただその現象を書き記すことしかできなかった僧侶たちの、悲痛な報告書じゃ。
症例報告書、とでも言うべきかのう。
北は北海道から、南は沖縄まで、この呪いに触れてしまった者たちが、密かに情報を交換し、いつか、いつの日か、この呪いの法則性を見つけ出し、対処法を編み出すことを願って書き継がれてきた、絶望の網……それが、あの記録の正体じゃ」
老僧の目は、遠い過去を見ていた。
記録の中に登場した、名も知らぬ僧侶たちの顔を、一人一人思い浮かべているかのようだった。
「藤原泰然師も、そうじゃった。
彼は、この呪いを深く探求し、その危険性を理解していた。
じゃが、その探求心の深さゆえに、『雨濡』に最も深く愛されてしもうた。
彼は、自らが記録者でありながら、最後には、新しい記録の『症例』そのものになってしもうたのじゃ……」
久坂は、自分が読んできた数々の記録を思い出していた。
淡々と、しかし克明に記された怪異の数々。
その筆致の裏にあった、記録者たちの恐怖と絶望、そして、次に同じ目に遭う誰かへの、声なき警告。
あれは、呪いを広めるためのものではなく、呪いと戦うための、あまりに無力な武器だったのだ。
「わしは、そのネットワークの、いわば墓守りの一人じゃ。
情報を集め、新たな記録を加え、そして、おぬしのように、この網にかかってしまった者を……
見届ける」
そこまで言うと、老僧は久坂の目を真っ直ぐに見据えた。
その瞳の奥に、蝋燭の炎とは違う、微かな、しかし強い光が灯っていた。
「じゃが……」
老僧は、一度言葉を切り、意を決したように続けた。
「まだ、道が完全に閉ざされたわけではないやもしれん」
その言葉は、暗闇の中に差し込んだ、一本の蜘蛛の糸のように、久坂の心に垂れ下がった。
「おぬしは、確かに深く汚染されておる。
短期間に、あれほどの記録を読み解いた者は、近年おらん。
おぬしの魂は、もう半分、水底に足を踏み入れておる。じゃが、まだ完全に沈んではおらん」
老僧は、ゆっくりと立ち上がると、久坂に手招きをした。
「この寺の最も奥深くに、『水底の間』と呼ばれる場所がある。
かつて、我々の先達が、『雨濡』の穢れを祓うために使ったとされる、古い儀式の場じゃ」
彼の声には、これまでになかった厳粛さが宿っていた。
「それは、荒療治じゃ。
成功する保証など、どこにもない。
下手をすれば、おぬしの魂は、その場で砕け散るやもしれん。
あるいは、藤原泰然師よりも、さらに惨い形で……
『器』として完成してしまうやもしれん」
老僧は、茶室の入口で立ち止まり、久坂を振り返った。
「じゃが、何もしなければ、おぬしはじきに、あの男のようになる。
それは、確実じゃ。
どうする?
このまま、ゆっくりと沼に沈んでいくのを待つか。
それとも……
万に一つの可能性に、賭けてみるか?」
老僧の問いかけが、湿った空気に重く響いた。
久坂の目の前には、二つの道が示されていた。
一つは、緩やかで、しかし確実な狂気と崩壊への道。
もう一つは、一瞬で全てを失うかもしれない、しかし、僅かな光が差す可能性のある、茨の道。
背後からは、今も、藤原泰然の「うだれ……」という呻き声が、地の底から響いてくるようだった。




