第四話:水観寺跡
東京駅の喧騒は、まるで別の惑星の出来事のようだった。
夜行列車に乗り込んだ久坂は、指定された席に身を沈めると、逃げるように瞼を閉じた。
だが、眠りは訪れない。
車輪がレールを刻む単調なリズムが、あの忌まわしい滴りの音と重なり、彼の鼓膜を内側から打ち続ける。
車窓を流れていく都市の灯りは、彼の部屋の窓から見下ろしていた、あの青白い顔の残像を網膜に焼き付けた。
彼は、悪夢から逃れるために、別の悪夢へと向かっているのだ。
列車が西へ進むにつれ、車窓の風景は色を失っていった。
夜が明け、空が白み始めても、太陽の姿は見えない。
厚い鉛色の雲が、空に重く蓋をしていた。
岡山を過ぎ、鳥取県へと入る頃には、窓ガラスに細かい雨粒がまとわりつくようになっていた。
それは、あの夜、スマートフォンに映し出された土砂降りとは違う、肌にまとわりつくような、陰湿な霧雨だった。
目的の駅は、時刻表の片隅に追いやられたような無人駅だった。
錆びついたホームに降り立ったのは久坂一人。
しんと静まり返った駅舎を出ると、湿った土と腐葉土の匂いが、濃密な霧と共に彼を包み込んだ。
空気を吸い込むと、肺がじっとりと濡れるような錯覚に陥る。
駅前に一台だけ停まっていたタクシーに乗り込み、彼は震える声で「水観寺の近くまで」と告げた。
年配の運転手は、バックミラー越しに訝しげな視線を久坂に向ける。
「水観寺?
……ああ、あの廃寺かね。
もう何十年も前に誰も行かなくなった場所ですよ。
道も途中でなくなってるし、こんな雨の日に、一体なんのご用で?」
「……少し、調べたいことがありまして」
運転手はそれ以上何も聞かず、ただ「物好きもいるもんだ」と呟くと、重々しく車を発進させた。
車は、寂れた集落を抜け、杉木立が両脇から迫る薄暗い山道へと入っていく。
ワイパーが、気だるそうにフロントガラスの雨を拭う。道は次第に険しくなり、アスファルトは途切れ、やがて車はぬかるんだ道の途中で停まった。
「すみません、お客さん。
これ以上は無理だ。
あとは歩いてもらうしかない」
久坂は礼を言って車を降りた。
タクシーが去っていくと、彼の周りには、雨音と、自分の荒い呼吸の音だけが残された。
ここからは、徒歩だった。
ぬかるんだ山道を、一歩一歩、慎重に進む。
鬱蒼と茂る木々は空を覆い隠し、昼間だというのに、辺りは夕暮れのような薄闇に支配されていた。
粘りつくような湿気が全身に絡みつき、体温を奪っていく。
道端には、苔むした石仏が点在していた。
だが、そのどれもが、異様な姿をしていた。
地蔵だ。
子供の魂を守るという、柔和な笑みを浮かべているはずの地蔵菩薩。
しかし、ここに立つ地蔵たちの顔は、まるで何百年もの間、強い酸性の雨に打たれ続けたかのように、のっぺりと溶け落ちていた。
目も、鼻も、口も、その輪郭を失い、ただつるりとした石の表面だけが、黒緑色の苔に覆われている。
それは風化ではなかった。
まるで、石そのものが、耐え難い悲しみで涙を流し続け、その顔を自ら溶かしてしまったかのようだった。
どれくらい歩いただろうか。
息が切れ、足が鉛のように重くなった頃、不意に視界が開けた。
朽ち果てた山門が、まるで巨大な獣の顎のように、彼の前に口を開けている。
山門に掲げられた木製の扁額は、そのほとんどが腐り落ちていたが、辛うじて、いくつかの文字が読み取れた。
――水観寺。
ついに、辿り着いたのだ。
久坂は、ゴクリと唾を飲み込み、山門をくぐった。
境内は、背の低い笹と、腰の高さまである羊歯に覆い尽くされていた。
本堂と思われる建物は、屋根が大きく歪み、今にも崩れ落ちそうだったが、その姿はかろうじて保っている。
彼は、吸い寄せられるように本堂へと向かった。
ぎし、と音を立てる濡れた縁側に足を乗せ、巨大な格子戸に手をかける。
重い。
湿気を吸い、腐りかけた木製の扉は、呻くような軋り音を立てて、わずかに開いた。
隙間から、内部の闇が覗いている。
そして、そこから流れ出してきたのは、澱んだ空気の匂いだった。
カビと、腐った木材と、そして――
土蔵や古い井戸の底から漂ってくるような、淀んだ水の腐臭。
久坂は意を決し、扉を押し開けて、堂内へと足を踏み入れた。
中は、外よりもさらに暗く、目が慣れるまでしばらく時間がかかった。
そして、足元の感触に、彼は息を呑んだ。
板張りの床であるはずなのに、靴底が捉えたのは、ぬちゃり、という湿った土の感触だった。
床板は、そのほとんどが腐り果て、剥がれ落ち、その下にある地面の泥が、堂内を侵食していたのだ。
まるで、寺そのものが、大地という巨大な沼に飲み込まれかけているかのようだった。
彼が一歩、泥の床に足跡を刻んだ、その時。
本堂の最も深い闇、本尊が安置されていたであろう須弥壇の影から、すっ、と一つの人影が姿を現した。
久坂は、心臓が喉から飛び出るかと思うほどの衝撃に、身を固くした。
そこに立っていたのは、一人の老人だった。
痩せこけ、背中の曲がった、年経た僧侶。着古した墨染の衣の裾は、堂内の泥で黒く汚れている。
その手には、粗末な箒が握られていた。
彼は、この廃寺を、一人で掃き清めていたのだ。
老僧は、驚いた様子も見せず、ただ静かに久坂を見ていた。
その顔は、乾いた川底のように深く皺が刻まれ、一切の感情が読み取れない。
だが、その瞳だけが、古井戸の底のような、暗く、昏い光を宿していた。
それは、予期せぬ来訪者を訝しむ目ではなかった。
違う。
老僧の目は、久坂自身ではなく、彼の背後にある何か――
彼にまとわりついて離れない、濃密な「水の気配」を、じっと見据えているかのようだった。
雨音だけが支配する廃寺の闇の中で、二人は、言葉もなく、ただ見つめ合っていた。




