第三話:滴りの音
鳥取行きの夜行列車の切符を予約したのは、深夜三時を回った頃だった。
スマートフォンの硬質な光だけが灯る暗い部屋で、久坂はほとんど無意識に画面をタップしていた。
「予約を確定する」というボタンを押した指は、自分のものではないかのように冷たく、無機質だった。
もはや、後戻りはできない。
この行為は、学術的な調査旅行の始まりなどではない。
深淵へと自ら歩みを進める、最初の儀式なのだ。
彼は椅子から立ち上がり、旅の準備を始めた。
クローゼットの奥から引っ張り出した旅行鞄に、数日分の着替えと洗面用具を機械的に詰めていく。
雨具は必須だろう。
山陰の気候を考えれば当然の判断だが、今の彼にとって「雨」という言葉は、単なる気象現象以上の、不吉な意味を纏っていた。
それから、調査の必需品。
ノートパソコン、数冊のノート、そして――
あの呪われた記録の写し。
段ボールから取り出した紙の束は、一晩でさらに湿気を吸ったように、不気味なほど指にまとわりついた。
全ての準備を終えても、まだ窓の外はインクを溶かしたような闇に沈んでいた。
鞄を玄関に置き、リビングのソファに深く身を沈める。
静かだ。
昨夜の狂騒が嘘のように、部屋は沈黙に支配されていた。
だが、その沈黙は安らぎをもたらさない。
耳鳴りのように、低く持続する緊張が鼓膜を圧迫していた。
その時だった。
ぽつん。
静寂の膜を、硬質な音がひとつ、針で突くように破った。
キッチンの方角からだ。
シンクに溜まった水滴が落ちる音か。
久坂は立ち上がり、キッチンの蛇口を確かめた。
固く締まっている。
水気ひとつない、乾いたステンレスの表面が、常夜灯の光を鈍く反射していた。
気のせいか。
疲れているのだ。
彼は自分に言い聞かせ、再びソファに戻ろうとした。
ぴちょん。
今度は、ユニットバスの中からだ。
先ほどより、水気の多い、粘りを感じさせる音。
彼はユニットバスのドアを開け、洗面台とシャワーの蛇口を捻る。
どちらも、乾ききっていた。
――おかしい。
背筋を冷たいものが走り抜ける。
彼は耳を澄ませた。
部屋中の神経が、聴覚という一点に収束していく。
ぽつ、ぽつん。
ぴたん。
聞こえる。
ひとつではない。
キッチン、洗面所、そして今度は、閉め切った窓の方からも。
まるで部屋の至る所に、見えない蛇口が取り付けられているかのように、不規則な水音のシンフォニーが始まったのだ。
それは【藤野家「写真の目」怪異報告(平成元年8月20日)】に記された、夜伽の最中に響いたという水滴の音を想起させた。
記録の中の現象が、今、彼の部屋で正確に再現されている。
久坂はヘッドフォンを掴み、耳に押し当てた。
スマートフォンの音楽ライブラリから、最も激しいロックミュージックを選んで最大音量で再生する。
轟音のギターとドラムが、彼の頭蓋を直接揺さぶった。
だが、無駄だった。
音の洪水の中から、まるで幻聴のように、あるいは骨伝導のように、あの滴りの音は明瞭に聞こえ続けた。
ぽつん、ぴちょん、ぽつ、と。
それはもはや、彼の外側で鳴っている音ではなかった。
内側から、脳の奥から、直接響いているのだ。
彼はヘッドフォンを床に叩きつけ、ソファに蹲った。
どれくらいの時間が経っただろうか。
疲労と恐怖のあまり、意識が朦朧とし始めた頃、ふと、彼は天井に視線を向けた。
白い天井の中央付近に、小さなシミが浮かんでいる。
あれは、いつからあっただろうか。
古いアパートだ、雨漏りの跡の一つや二つ、あってもおかしくはない。
だが、彼の記憶には、あの場所にシミがあったという記憶はなかった。
彼は瞬きもせず、そのシミを凝視した。
滴りの音は、依然として続いている。
まるで、あのシミから滴り落ちているかのように。
見ているうちに、シミの輪郭が、僅かに、しかし確実に滲み、広がっていくのがわかった。
インクが和紙に染み込んでいくように、じわり、じわりと。
その色は、単なる茶色ではなかった。
黒に近い、カビと泥が混じり合ったような、病的な染みだ。
そして、その形。
はじめは不定形だった染みは、ゆっくりと形を変え、やがて、ある明確な輪郭を結び始めた。
指だ。
細く、歪んだ五本の指。
そして、それに続く、不格好な掌。
――手。
天井から、黒く濡れた「手」の形をしたシミが、久坂を見下ろしていた。
彼は悲鳴を上げようとしたが、喉が凍りつき、ひきつった呼吸が漏れるだけだった。
見間違いではない。
シミは、今もなおゆっくりと広がり続けている。
その手の隣に、また新しい染みが生まれ、それが第二の「手」の形を成していく。
一つ、また一つと、天井は無数の黒い手に覆い尽くされていく。
それは、彼を掴もうと伸ばされた、水底の亡者たちの手のようだった。
もう、ここにはいられない。
久坂はソファから転がるように立ち上がった。
全身から噴き出す汗で、服はぐっしょりと濡れている。
逃げなくては。
だがその前に、このまとわりつくような不快感を洗い流したいという、ほとんど強迫観念に近い衝動に駆られた。
彼は、まるで夢遊病者のように、ユニットバスへと向かった。
滴りの音が、すぐ耳元で聞こえる。
洗面台の蛇口を捻り、冷たい水を両手ですくうと、勢いよく顔に叩きつけた。
金属的な水の匂いが鼻をつく。
数回それを繰り返し、彼はタオルで顔を拭きながら、ゆっくりと顔を上げた。
鏡の中の自分と、目が合った。
恐怖と疲労に歪んだ、見慣れた自分の顔だ。
――違う。
鏡の中の男の顔は、青白く、まるで何日も水に浸かっていたかのように、ぶよぶよに膨れ上がっていた。
瞼は重く垂れ下がり、その隙間から覗く瞳は、深海の魚のように白濁している。髪は、藻のようなものを含んだ黒い水に濡れそぼり、額に不気味な束となって張り付いていた。
それは、記録の中にいた、全ての溺死者の顔だった。
そして、その腫れ上がった唇が、ゆっくりと動いた。声は聞こえない。
だが、その口の中から、水泡と共にどろりとした黒い泥水が、とめどなく溢れ出してくるのが見えた。
鏡の中の「それ」が、ゆっくりと右手を持ち上げる。
久坂もまた、まるで操り人形のように、鏡に向かって右手を伸ばしていた。
「それ」の手のひらが、鏡の表面に内側から押し当てられる。
同時に、久坂の指先が、鏡の冷たいガラスに触れた。
――ひっ!
ガラス越しに伝わってきたのは、死後硬直の始まった肉塊を直接触るような、生命の熱を完全に失った、墓場のような冷たさだった。
久坂は、絶叫と共に洗面台から飛びのいた。床に尻餅をつき、後ずさりながらユニットバスから這い出る。
滴りの音と、天井の黒い手、鏡の中の溺死者。
この部屋は、もはや彼の部屋ではなかった。
ここは、あの記録の写しに描かれた、怪異の現場そのものなのだ。
彼は旅行鞄と、机の上の記録の束をひっつかむと、鍵をかけるのも忘れ、アパートの部屋を飛び出した。
深夜の冷たい空気が、燃えるような肌に突き刺さる。
階段を転がるように駆け下り、アパートの外の通りに立つ。
彼は、ぜいぜいと荒い呼吸を繰り返しながら、自分が住んでいた部屋の窓を見上げた。
二階の、彼の部屋の窓は、暗い闇に閉ざされている。
だが、一瞬、ガラスの向こう側で、何かが動いたような気がした。
濡れた、青白い顔が、内側から窓に張り付き、じっと、彼を見下ろしていた。
久坂は背を向け、闇の中をひたすら走り出した。
背後から、ぽつん、ぴちょん、という滴りの音が、いつまでも彼を追いかけてきていた。




