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秘匿葬送記録  作者: 月影 朔


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30/101

聖マリア教会水底嘆願記録(昭和初期)

【極秘】秘匿葬送記録:参拾ノ巻

報告書番号: 昭和初期-不詳-002

作成日時: 昭和初期某日(詳細不明)

報告者: 九州地方某所 聖マリア教会 司祭 トーマス・ブラウン(花押)

事案名: 聖マリア教会水底嘆願記録


一、事案発生日時・場所

日時: 不詳(古文書による推定:昭和初期、豪雨による洪水発生から数日後)

場所: 九州地方某所 聖マリア教会。


二、故人情報

氏名: エリザベス・ヤマモト

享年: 62歳

死因: 洪水による溺死(教会近くの自宅で、押し寄せる濁流に飲まれて死亡。遺体は数日後、自宅の二階で発見されたが、水に浸かり損傷が激しかった)。

特記事項: 敬虔なカトリック教徒で、長年教会に仕えていた。彼女の死は、教会の教徒たちに深い悲しみと動揺を与えた。


三、事案の概要(時系列順)

不詳: 九州地方を襲った記録的な豪雨により、聖マリア教会のある地域は大規模な洪水に見舞われた。教会もまた、膝下まで水に浸かり、泥水が祭壇まで押し寄せていた。そんな中、長年教会を支えてきたエリザベスが、洪水で命を落としたという知らせが入る。彼女の葬儀は、水に埋もれた教会で執り行われることになった。


不詳(葬儀開式時): 聖マリア教会にてエリザベスの葬儀が始まる。棺は祭壇の前に置かれたが、教会内は水浸しで、参列者は泥水を避けながら集まった。ミサが始まると、トーマス司祭の祭服の裾が、じっとりと水を含み始めた。同時に、教会全体が、まるで巨大な水槽に沈んでいるかのように重く、冷たい水滴が皮膚にまとわりつくような不快感を覚えた。教徒たちの顔には、不安と恐怖が浮かんでいた。


不詳(聖書朗読中): 聖書朗読の最中、司祭の足元から、微かな、しかし粘りつくような「水底を掻き回す音」が聞こえ始めた。「ゴボ…ゴボゴボ…」と、まるで水底で何かが蠢くようだった。見ると、祭壇の周囲の水面が、不自然なほどに波打ち、黒い泥水が渦を巻いているのが見て取れた。そこからは、生臭い水の匂いと、腐敗した土のような異臭が混じり合い、教会を満たした。同時に、参列者の何名かが、水中に無数の「影」がゆらめいているのを目撃し、静かなる悲鳴が上がった。


不詳(聖餐式中): 聖餐式が始まる。司祭は、異変により全身が水を吸ったかのように重く、疲労困憊であったが、聖体拝領を続けた。しかし、聖体拝領の最中、彼の目の焦点が合わなくなり、祭壇の水面が、まるで深い淵を覗き込んでいるかのように、底知れない闇を帯びて見えた。水中にゆらめく無数の影が、まるで自分たちに手を伸ばすかのように、徐々にその姿を明確にしていった。それは、水に浸かり膨張した、無数の人間の顔や手足のようでもあり、あるいは泥にまみれた衣服のようでもあった。司祭の体は小刻みに震え、祈りの声はついに途絶えた。教徒たちの顔色は一様に青白く、水に浸かったかのようにふやけ、誰もが虚ろな目で水底を見つめていた。


不詳(終油の儀): 棺を運び出す終油の儀式が始まる。司祭は強烈な目眩と吐き気に襲われた。彼の眼には、棺が水中でぼんやりと浮かぶ巨大な「何か」の塊に見え、その表面には、水に浸かり膨張した、エリザベスの顔のようなものが無数に貼り付いている幻覚を見た。彼は、その顔が自分を嘲笑い、「我らと共に…」と囁いているように感じたという。彼が棺に触れようと手を伸ばした瞬間、指先が凍るような冷たさと同時に、腐りかけた肉の感触に触れた。彼は意識を保つのがやっとの状態であった。


不詳(埋葬完了後): 埋葬を終え、教会に戻ったトーマス司祭は、突如として激しい呼吸困難に陥った。彼の全身は異常なほどに冷え切り、口からは大量の生臭い水が吐き出された。それは汗とは異なり、まるで体内の水分が全て濁った水に置き換わったかのようであった。彼は搬送された病院で、原因不明の肺水腫と診断され、意識不明の重体となった。彼の意識が回復した後も、彼は常に水が滴るような幻聴に悩まされ、やがて水への異常な恐怖を抱くようになったという。その後、この教会は洪水による被害が甚大であるとして閉鎖され、再建されることはなかった。周辺地域は再び大雨に見舞われるたびに、教会跡地から不気味な水音が聞こえるという噂が絶えない。


四、特異な点と考察

大雨による洪水で埋没した教会で行われたエリザベスの葬儀が、今回の怪異に深く関与している。

これは、水没した土地、特に聖なる場所である教会に、無数の水難死者の魂が取り憑き、故人の葬儀を契機に顕現したものと推測される。

彼らの嘆きや未練が、「水」を媒介として現世に干渉しようとしたのではないか。

教会内での「祭服の湿り気」「水底を掻き回す音」「水中にゆらめく無数の影」「棺からの水蒸気と腐敗臭」、そして司祭自身の体調不良、特に「全身からの異常な水滴」や「肺水腫」といった症状は、水難死者の怨念が「水」を媒介とし、自身の死の状況を物理的に顕現させ、生者の肉体、特に体液の循環を司る部分を「侵食」し、周囲の空間全体を「水底」に変えようとしていることを強く示唆している。

まるで彼らの未練が、水という媒体を通して、生者の肉体そのものを「濡らし」「溺れさせる」かのように影響を及ぼしている。

神への祈りという「浄化」の儀式が、かえって怨念を刺激し、司祭自身、ひいては参列者を危険に晒した可能性。

怨霊が儀式に抵抗し、それを妨害するために、司祭の身体に直接干渉したと考えられる。

特に、司祭の体から濁った水が噴き出したのは、水難死者たちが水中で感じた苦しみを、彼に追体験させたのではないか。

「水中にゆらめく無数の影」や「水に浸かり膨張した無数の人間の顔」という司祭の幻覚は、エリザベス個人の死を超え、水害で命を落とした無数の魂の集合体が「水難の怪異そのもの」へと変質しつつあることを示唆している。

その幻覚が「我らと共に」と囁いたのは、生きている者たちをも水底へ引きずり込もうとする強い意志の表れである。

この怪異は、単なる精神的な影響に留まらず、肉体的な損傷、特に呼吸器系や体液循環機能への影響を伴う点で極めて危険であり、その侵食性と広範囲な伝播性が最も恐るべき点である。

聖なる場所が、根源的な水の恐怖に蝕まれた、非常に稀な事例である。


五、対処・対策

トーマス司祭はエリザベスの魂、そして無数の水難死者の魂の安寧を願って祈りを捧げたが、彼らの嘆きと怨念はすでに司祭の理解と力を超えた存在となっていた。

事案後、トーマス司祭は一命を取り留めたものの、彼の体調は常に優れず、水を見ると激しい恐怖を覚えるようになった。

聖マリア教会は閉鎖され、その後も洪水が頻発するたびに、教会跡地から不気味な水音や、嘆きのような声が聞こえるという噂が絶えない。

この事案を重く見た当時の教区は、水害で甚大な被害を受けた場所での葬儀について、最大限の警戒と、可能な限り他の場所での執り行いを推奨する通達を出した。


六、付記

本件は、「大雨による洪水で埋没した聖なる場所で執り行われた葬儀が、水中に漂う無数の魂の怨念を呼び覚まし、現世に顕現させた」という、極めて恐ろしい事例である。

極秘記録中の最重要記録として、今後のあらゆる事例の参考に供する。

聖マリア教会の怪異は、単なる個人の死に留まらず、水害で失われた無数の命の嘆きが、水という媒体を通して、終わりのない浸食を続けていることを示している。

この水底に蠢く恐怖は、一体いつまで現世に影響を及ぼし続けるのだろうか。

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