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秘匿葬送記録  作者: 月影 朔


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やえ怪死葬送記録(昭和20年3月11日)

【極秘】秘匿葬送記録:弐拾伍ノ巻

報告書番号: 昭和20-03-11-001

作成日時: 昭和20年3月12日 午前3時00分

報告者: 東京都本所区 誓願寺 住職 徳永 宗浄(花押)

事案名: やえ怪死葬送記録


一、事案発生日時・場所

日時: 昭和20年3月10日 午後3時00分頃(通夜開式時)より、翌11日 午前11時00分頃(出棺完了時)まで断続的に発生。

場所: 東京都本所区 誓願寺 本堂。


二、故人情報

氏名: やえ

享年: 23歳

死因: 東京大空襲による焼死(隅田川に逃げ込んだ際、焼夷弾の熱と煙、そして川への転落により溺死したものと推測される。遺体は水中で発見され、損傷が激しかった)。

特記事項: 空襲で家族を失い、単身で東京に住んでいた。近隣住民に助けられ、辛うじて身元が判明した。遺体は重度の火傷と水による膨張が確認された。


三、事案の概要(時系列順)

3月9日 午後5時00分頃: 近隣住民よりやえの葬儀の依頼が入る。遺体の損傷が激しく、荼毘に付す前にせめてもの供養をとの切なる願いであった。戦時下であり、物資もままならない中での葬儀準備を進める。東京の空は灰色の煙に覆われ、焦げ付くような匂いが常に漂っていた。


3月10日 午後3時00分頃(通夜開式): 誓願寺本堂にて通夜が始まる。やえの棺は小さく、その中には炭化した肉塊と化した遺体が横たわっていた。遺影は、かろうじて残された生前の写真が供えられた。読経中、徳永住職の耳元に、微かな、しかし粘りつくような水音が聞こえ始めた。「ゴボ…ゴボ…」と、まるで水中で息を吐くかのような音であった。同時に、本堂の空気が、まるで土砂降りの雨に打たれるかのように重く、湿り気を帯びてきた。参列者の顔には、冷たい脂汗が滲み始めた。


3月10日 午後7時30分頃: 通夜振る舞いの最中、本堂の床、特に故人の棺が安置されている祭壇の下あたりから、水が染み出すような音が響き始めた。「ジュワ…ジュワワ…」と、まるで乾燥した木材が水を吸い上げるかのようだった。見ると、祭壇の足元には、黒ずんだ水が輪郭を広げ、墨を流したように滲んでいた。水に触れた畳は急速に湿り、冷たさを増した。同時に、焦げ付くような異臭と、川底の泥のような生臭さが混じり合い、本堂を満たした。


3月11日 午前0時00分頃: 徳永住職が故人の傍らで夜伽を行う。本堂は静まり返り、不気味な水音が響く。住職が読経を始めると、棺の中から「ブク…ブクブク…」と、何かが水中で膨れ上がるような音が聞こえてきた。その音は、やえの遺体が水中で膨張していくかのようでもあり、あるいは底知れぬ深淵から「何か」が浮上してくるかのようでもあった。住職は喉の奥が張り付くような渇きを覚え、読経の声が途切れがちになった。


3月11日 午前8時00分頃(告別式開始): 告別式が始まる。夜伽の間の異変により、住職は疲労困憊であったが、気力を振り絞って読経を続けた。しかし、読経の最中、彼の視界が、まるで水面に油膜が張ったかのように歪み、祭壇の故人の棺が、不気味なほどにプルプルと震え始めた。棺の表面からは、どろりとした黒い水が滲み出し、そこから立ち上る蒸気は、火傷の痕と泥水の混じったような、形容しがたい悪臭を放っていた。住職の体は水を吸ったかのように重く、読経の声はついに途絶えた。


3月11日 午前10時00分頃(出棺): 棺を霊柩車へ運ぶ際、徳永住職は突然、激しい胸の痛みに襲われた。彼の眼には、棺の周りに、無数の焦げ付いた手足が、水中でゆらめいている幻覚が見えた。それは、空襲で川に流され、焼け焦げて溺れた人々の亡骸のようであった。彼が棺に触れようと手を伸ばした瞬間、指先が強烈な熱と同時に、内臓がえぐられるような冷たさに触れた。彼はその場に膝をつき、意識が朦朧とする中で、「水…、水が…」と呟いた。


3月11日 午前11時00分頃(出棺完了): 霊柩車が出発した後、徳永住職は本堂で大量の血を吐き、意識を失って倒れ込んだ。彼の顔は赤黒く腫れ上がり、全身から止めどなく水滴が流れ落ちていた。それは汗とは異なり、まるで彼の体内から水が噴き出しているかのようであった。搬送された病院で、医師は彼の肺と気管支に重度の炎症と、原因不明の「水泡」が多数確認されたと診断。一時は危篤状態に陥った。彼が意識を取り戻した際、最初に発した言葉は「まだ…沈んでいる…」であったという。


四、特異な点と考察

やえの死因が東京大空襲による火傷と、その後の隅田川での溺死という複合的な要因である点、そして遺体が水中で発見された点が、今回の怪異に深く関与している。

特に、空襲の熱と水中の冷たさという相反する要素が、怪異の性質にも影響を与えている。

本堂での「水音」「床からの水の滲み出し」「棺からの膨張音」「棺の震え」「黒い水と悪臭」、そして住職自身の体調不良、特に「大量の血を吐き、体内から水が噴き出すような症状」は、やえの怨念が「水」を媒介とし、火傷の痛みを伴いながら物理的に顕現し、生者の肉体を「侵食」していることを強く示唆している。

彼女の未練が、水という媒体を通して、周囲の空間、そして生者の肉体そのものを「濡らし」「焼く」かのように影響を及ぼしている。

読経という「浄化」の儀式が、かえって怨念を刺激し、住職自身を危険に晒した可能性。怨念が儀式に抵抗し、それを妨害するために、住職の身体に直接干渉したと考えられる。

特に、住職の体から水が噴き出したのは、やえが川で溺死した苦しみを、彼に追体験させたのではないか。

「無数の焦げ付いた手足が水中でゆらめく」という住職の幻覚は、やえの怨念が、彼女個人の苦しみを越え、東京大空襲で川に逃れて命を落とした無数の人々の怨念と融合し、「水難の怪異そのもの」へと変質しつつあることを示唆している。

この怪異は、単なる精神的な影響に留まらず、肉体的な損傷、特に呼吸器系への影響を伴う点で極めて危険であり、その侵食性と伝播性が最も恐るべき点である。

戦災による死者の怨念が、水という媒体を介して、生き残った者にまで及ぶという、極めて恐ろしい事例である。


五、対処・対策

徳永住職はやえ、そして大空襲で命を落とした無数の魂の安寧を願って読経を続けたが、やえの怨念はすでに彼の理解と力を超えた存在となっていた。

事案後、徳永住職は一命を取り留めたものの、彼の声は常に掠れ、呼吸も困難になった。

また、常に全身に強い湿り気を帯び、皮膚からは絶えず水が滲み出るようになったという。

この事案を重く見た誓願寺は、今後、水難や火災による戦災死者の葬儀について、より厳重な体制で臨むことを決定した。


六、付記

本件は、「戦災による死者の怨念が、特定の死因(火傷と水難)と深く結びつき、その媒体(水と熱)を通して生者に連鎖的に憑依し、肉体と精神を侵食していく」という、極めて恐ろしい事例である。

極秘記録中の最重要記録として、今後のあらゆる事例の参考に供する。

やえの怨念は、彼女個人の悲劇に留まらず、大空襲で命を落とした無数の魂を巻き込み、その影響を広げた。

この「水」と「火」にまつわる怪異は、一体誰に、そしてどのような形で牙を剥くのか。

その終わりなき浸食は、今もなお進行している。

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