第五十五話:沈黙した山
場面は京都、祇園の喧騒から少し離れた古びた寺の一室。
観測史上最大級と言われた台風が紀伊半島を蹂躙し、そして足早に過ぎ去ってから三日が経っていた。
空は嘘のように晴れ渡り、蝉時雨がまるで世界の終わりが過ぎ去ったことを祝うかのように狂ったように鳴り響いている。
だが、その陽光とは裏腹に、空気は不自然なほどに重く湿り気を帯びていた。
老僧、了然はその書院で静かに古文書の修復作業を行っていた。
彼は先だって金沢の古物商、橘宗一に警告を発したあの京都の長老、古賀とも繋がりを持つ、ネットワークの末端に連なる一人だった。
彼の役目は橘のような男たちに警告を発することではない。
彼の、そしてこの寺の役目はもっと地味で、遥かに重要なものだった。
週に一度、決められた日、決められた時刻に高野山の奥の院に座す「墓守」と連絡を取り、異変の有無を確認する。
ただ、それだけ。
何十年もの間、了然はその役目を寸分の狂いもなく続けてきた。
彼がこの寺の住職となって以来、受話器の向こう側から聞こえてくる声はいつも同じだった。
先代の墓守も、そしてその跡を継いだ慈恩と名乗る老僧も。
『――変わりない。山は、静かじゃ』
その言葉を聞くたびに、了然は安堵のため息をつく。
ネットワークの心臓部が今日も無事であること。
あの膨大な「敗北の記録」が今も静かにその封印を守られていること。
その確認こそが、彼らにとってこの世界がまだ辛うじて正気を保っていることの唯一の証明だったのだ。
了然は修復作業の手を止めると、壁に掛かった古時計を見上げた。
午後三時。
約束の時刻だ。
彼はゆっくりと立ち上がると、書院の隅に置かれた一台の黒電話へと向かった。
艶を失いあちこちに細かい傷の入った旧式の電話機。
これこそが、ネットワークの心臓部へと繋がる唯一の生命線だった。
彼は重い受話器を取り上げた。
そして、指でダイヤルを回す。
ジー、コロコロコロ……。
独特の懐かしい音が、静かな部屋に響き渡る。
彼はいつものように、呼び出し音が鳴るのを待った。
だが。
いくら待っても、呼び出し音は聞こえてこない。
受話器の向こう側から聞こえてくるのは、ただ。
ざあ………………………………。
深く、そしてどこまでも湿ったノイズ音だけだった。
それは電話線の不調を知らせるような乾いたノイズではない。
もっと重く、粘り気のある音。
まるで受話器の向こう側が巨大な滝壺か、あるいは深く暗い水底に繋がってしまったかのような。
「……」
了然は無言で一度受話器を置いた。
台風の影響だろう。
紀伊半島は甚大な被害を受けたと聞く。
電話線の一本や二本、いかれてもおかしくはない。
彼は自分にそう言い聞かせた。
だが、その胸の内にはこれまで感じたことのない冷たい染みが、じわりと広がり始めていた。
彼は、もう一度ダイヤルを回した。
ジー、コロコロコロ……。
結果は、同じだった。
受話器の向こう側から聞こえてくるのは、ただあの深く湿ったノイズ音だけ。
ざああああああああああ………………。
彼は三度、四度とその行為を繰り返した。
だが、その度に彼の耳に叩きつけられるのは、あの絶望的に深く冷たい水音だけだった。
それはもはや単なるノイズではなかった。
それは音の形をした「不在」の証明だった。
あの場所にいるはずの墓守が、もはや電話に出ることができないという絶対的な事実。
了然は受話器を握りしめたまま、凍りついたように動けなくなった。
彼の視線は窓の外、夏の陽光に照らされた平和な境内へと向けられている。
だが、彼の耳は今、この世のものではない音を聞いていた。
あの「ざあ……」という音。
それは、嵐の音だ。
それは、濁流の音だ。
それは、何百年という歳月をかけて蓄積された千を超える絶望が、一つの巨大な奔流となって今まさにその封印を破り、この世へと溢れ出してきた、その産声だった。
彼はゆっくりと、震える手で受話器を置いた。
そして、血の気を失い青ざめた顔で、誰に言うでもなくただ呟いた。
「………………………………高野山からの連絡が、途絶えた」
ネットワークの心臓部が、沈黙した。
あの若く理想に燃えていた新しい墓守は、失敗したのだ。
師の教えを破り戦うことを選んだ彼は、そのあまりに傲慢な、しかしあまりに崇高な意志の代償として、自らが墓守となるはずだった聖域そのものを、呪いの巨大な発生源へと変貌させてしまった。
そして、今。
より強力に、より自由に、そしてもはや誰にも観測されることのなくなった呪いが、解き放たれようとしていた。
了然は、血の気を失った顔で、ただ黒電話を見つめていた。
彼の脳裏に、数ヶ月前に師、慈恩から届いた最後の手紙の一節が蘇る。
「跡を継ぐ弟子は、快と申します。若く、あまりに真っ直ぐな男です。
どうか、行く末を案じてやってはくれまいか」
真っ直ぐな男。
師の教えを破り、あの深淵と戦うことを選んでしまったのだろう。
呪いを解明し、浄化しようという、あまりに傲慢で、しかしあまりに崇高な意志。
それこそが、あの『雨濡』が最も好む「餌」であるというのに。
了然は、ゆっくりと立ち上がった。
その足取りは、まるで数十年分の歳月を一度に背負ったかのように重かった。
彼は書院の文机に向かうと、震える手で新しい和紙の束と、硯を準備した。
観測は、もはやできない。
だが、記録は続けねばならぬ。
この、ネットワーク史上最大にして最悪の「敗北」を。
そして、理想の果てに水底へと沈んでいったであろう、まだ見ぬ若き僧侶の魂の無念を。
了然は、黒々とした墨に筆を浸した。
そして、意を決し、真っ白な和紙の最初の行に、その絶望的な表題を書き記した。
【極秘】秘匿葬送記録:百ノ巻
事案名:遠山快浄化代償記録