episode6.絶希
死ぬ
そう直感した俺は、何も出来なかった。
足は竦み、腰は抜け、目尻から裂けそうなほどに目を見開き、強ばった体は全く動きそうにない。
尻から伝わる冷気が痛い。漂う埃が荒い呼吸の度に鼻を刺激するが、それが気にならない…気にすることも出来ないほどに、俺は絶望的、限界的状況下に置かれていた。
目の焦点が定まらない。定めたくない。あんなバケモノが目の前にいることを認めたくない。
そいつはゆっくりと顔を上げ、こちらを向く。
カツ…
1歩
そいつは発達した右太腿をあげ、鉤爪のついた足を前に出し、床で軽い音を鳴らす。
ギ………カツ…
2歩
右足で己の体重を支えながら、左足を前に出す。
膝の間接と爪が鳴らす音は軽い。しかし、さっきよりも大きな音は、更に俺の恐怖を煽る。心臓の鼓動がより一層、はち切れんばかりに早く、強く鳴る。
ギギ………カツ…
3歩
“死”が俺に近づく
爪が床を引っ掻く音が脳に響く。
鼓動が早い。口が渇く。息が出来ない。視界が霞む。
ギギギ……カ…………
4歩
"死"か………
こんなに早く迎えることになるとは思ってなかったな……………
もう無理だ…どうすることも出来ない……
「ハハ………」
ヒトは意外と面白い
こんな状況で俺は笑った
とにかく笑いが込み上げてきてどうしようもない。
引きつった笑みが俺の顔に張り付いて取れない。取る気力もない。
そんな状態のまま俺は5歩、6歩と歩みを進めるそいつを見つめ続けた。
目の前まで来たそいつは
鋭い爪のついた右手を上げ
俺に向かって
振り下ろ……
突如、俺の体は勢いよく後ろへ引っ張られた。
低く浮いた身体が地につかないうちに、轟音が鳴り響き砕かれた床の欠片が飛ぶ。
目の前にいたはずのそいつが少し離れた場所に居て、目の前の床を粉々に粉砕している。
何が…
「ちょっとあんた!ぼーっとしてる暇があんなら、とっとと動きなさいよ!死にたいの!?」
あぁ、この声は………
ガチガチに固まった体を無理やり動かし、後ろを見ると、
こんな暗く、ジメジメした、カビくさい場所には似つかわしくない純白の少女が立っていた。
「あ、あぁ………」
安堵の声と共に、涙が溢れる。
「え、ちょ、ちょっとぉ!なんでそんなに泣いてんのよ!そんなに怖かったわけ!?情けないわねぇ!」
ホントに情けない…
大の男が恐怖で動けず、女の子に助けてもらい、ボロ泣きとは………
「とにかく立ちなさい!逃げるわよ!」
こんなにも明るく元気で、透き通った声を聞くと、さっきまでの恐怖が吹き飛び、動けなかったことが嘘のように体が軽くなった。
何をしてたんだ俺は
何をしてるんだ俺は!
こんな小さな女の子に守られて、こんなやつに、こんな何も考えられなさそうな見た目の、クソ脳筋馬鹿野郎に恐怖して!
何やってんだよ!俺は!!!
力強く右足で地面を踏み締め、膝を手で鷲掴み、その手を支えに立ち上がる。
それと同時にヤツも床に突き刺さった爪を抜き切り、ゆっくりとこちらに顔を向ける。
「走るわよ!」
その声を合図に、俺たちはヤツと反対方向に走り出した。
前を走るイフと、俺の足音だけが響く。
ヤツは来ていないのか?
そう思い、頭を少し横に向け、チラと後ろを見ると、
そこにヤツは居なかった。
瞬間
イフの目の前にヤツが現れる。
上から降ってきたのであろうヤツを中心に、周りの壁や床がめちゃくちゃに壊れている。
すごい衝撃だ。
顔や手が痛むほど空気がビリビリと振動し、体がグラつく。
「ぐっ…」
あそこから跳んできたのか?7mはあるぞ!?
「っ!めんどくさいわね!」
イフは素早く踵を返し、逆方向に走り出す。俺も続いて走る。
「なぁ!どうしたらいい!何かヤツに対抗する手段は…
「ないわ!」
食い気味で絶望的な返事に、俺はまた心が折れそうになる。クソ!どうしたらいいんだよ!
ギ……
「…っ!!来るぞ!左に跳べ!!!」
俺はイフと一緒に棚と棚の間の通路に飛び込む。
さっきまでいた通路をヤツが跳んでいき、その先の壁と激しく衝突したようだ。爆音が響き渡り、がらがらと壁が崩れる音が聞こえる。
ギリギリでヤツの音に反応できて良かった。あんなのに突っ込まれたらたまったもんじゃない。
「どうす…」
どうすんだこれから、と言いかけたところでイフの手が俺の口を塞ぐ。
「静かに」
そう声を潜めて言うイフは、飛び込んだままのうつ伏せの体制で息を殺している。
俺も仰向けからうつ伏せになり、息を殺す。
ヤツとの距離はそう遠くない。体も完全に隠れている訳では無い。こんなのすぐに見つかると思い、早く移動することを体を動かしてアピールするが、イフは首を横に振り、動くなと訴えかけてくる。
俺は見つかることを覚悟し、膝と手を使って若干体を浮かせ、すぐ走り出せるよう体制を整える。
が、
いつまで経っても、ヤツが近づくのを感じられない。なんならヤツの足音は遠ざかっているように聞こえる。
ヤツの足音が完全に聞こえなくなった頃、大きくふーっと息を吐いたイフが起き上がり、ようやく口を開く。
「危なかったわね…」
イフの一言で緊張の糸が一気に緩み、体から力が抜け落ちていくのを全身で感じる。
起き上がり、体育座りをするイフとは別にあぐらをかく。
ここで俺は一つ疑問を投げかける。
「なんで急にあいつは襲ってこなくなったんだ?見えてないって訳じゃなかっただろ?」
「見えてなかったのよ」
俺の頭の中は「?」で埋め尽くされた
「いや…あいつは俺たちのことを見て、追ってきたじゃないか」
「それは私たちが音をたてたからよ。見てたってのも、ただ頭をこっちに向けていただけで、見てたわけじゃないわ。」
「だいたい、いつ目がみえないって気づいたんだ?そんなことがわかる瞬間はなかったはずだ」
「それは簡単よ」
イフはわざとらしく人差し指を立ててみせる
「あんたが腰抜かしておとなしくしてる時、あいつはゆっくりと動いていたわ。でも、私たちが走っている時は素早く動いていた。その違いは、私たちが音を出しているか出していないか、だったはずよ。」
「だから私は気づいたの。あいつは音で相手の位置を探っているんじゃないかって。目もついてないしね。」
言われてみれば確かにそうだ。イフの鋭い観察力と行動力に感服し、何も気づかずただ逃げることだけを考えていた自分に恥ずかしさを感じた。
イフは得意気にするでもなくさも気づいて当然のこととでも言うようにキョトンとしている。
…なおさら恥ずかしい
「君はすごいな…あの短い間でそこに気づくなんて……」
「気づいたっていうか、まぁ半分賭けだったけど」
………え?
「確証は持てなかったけどまあ多分そんな感じなんじゃないかなー?と思って。目無いし」
エヘヘ……といった感じで眉をひそめて頭を掻くイフ
「もし普通に目が見えてたら………」
「私とあんた共々、ここでお陀仏だったんじゃない?」
さらっととんでもないことを言う…
「でもまぁ、とりあえず助かったんだからいいじゃない」
それはそうだが…俺が思っていた以上に、イフはぶっとんだ少女なのかもしれない………
俺に太陽のような眩しい笑顔をむけてくるイフに、俺も笑おうとするが…
死んでいた可能性があることを考えると、上手く笑えない。
よくこんな状況でそんな満面の笑みができるなとまたまた感心してしまう。
「とりあえず、これからのことを考えましょ」
間19日