後編
わーっ。きゃー。超音波並みの高い声が、何重にも不規則にまじりあって辺りにばら撒かれる。耳慣れない人には、悲鳴と歓声との区別がつかない。幼稚園の園児が、庭で遊ぶ時間なのだ。
コンクリートでできた滑り台も、鉄でできたブランコも、それぞれ明るいペンキで彩られている。砂場もある。
滑り台の斜め後ろ、遊び場から少し離れた場所に、板と金網で作られた小屋がある。この幼稚園は今時珍しく、ウサギを飼育していた。
『かなあみにさわってはいけません』と、墨跡も薄れた木の札が金網に括りつけられている。小屋の前に、女の子がしゃがんでいた。親に編んでもらったであろう二本の細い三つ編みは、肩に当たるぐらいの長さであった。
「詩奈ちゃん、なにみているの」
「うさぎさん」
詩奈はちょうど小屋の真ん中辺りにしゃがんでいた。ウサギは彼女に目もくれず、キャベツの芯が転がる奥で餌を咀嚼していた。
「うさぎさん、あっちだよ」
詩奈に声をかけた園児は、隣りにしゃがんだ。さらさらの髪の毛にも、柔らかい産毛の光る頬にも、砂が纏わりついていた。しゃがんだ弾みで、髪の毛についていた砂が落ちた。園児は濡れた犬のように、ぷるぷると頭を振った。詩奈が手で砂を避けつつ横に飛び退く。
「いやあよ、陽介くんたら。すながあたるじゃない」
「ごめんね」
陽介は素直に謝り、詩奈が飛び退いた分にじり寄った。そっと詩奈の顔を覗き込む。
「どうしたの。詩奈ちゃん、げんきないよ」
ふうっ、と大きなため息をつき、詩奈は陽介から目を逸らして立ち上がる。陽介も真似をした。ただし詩奈に視線を注いだままである。
「ひっこししようかとおもうの」
「え、詩奈ちゃん、おひっこししちゃうの」
陽介が固まった。詩奈は金網に軽く手を触れた。モデルがポーズを取る風情である。陽介は慌てて詩奈の手を金網から外した。
「かなあみにさわっちゃあぶないよ」
詩奈は陽介を見上げた。彼は手を離せなくなった。彼女の黒い瞳は涙で潤んでいた。
「陽介くんとおわかれするのはかなしいけど、でもパパといっしょにおひっこしする。パパひとりじゃさみしいもの」
「りんご?」
陽介が反射的にうろ覚えの単語を口にすると、詩奈はすっと涙を引っ込めて、手も引っ込めた。ぱんぱん、と大袈裟に両手を打ち合わせて手の汚れを払う。
「りこんじゃないよ。てんきん」
「てんきん?」
建築事務所を構える親を持つ陽介には、馴染みのない単語であった。詩奈はくるりと身を翻し、ぱたぱたと駆け出した。陽介は慌てて後を追った。
いそいそと、木村重子は自慢の手料理を年代もののちゃぶ台に並べた。亡夫が生前、家具屋の閉店セールで安く買ってきた。しっかり乾燥させた木に丁寧に何度も重ねて塗られた漆のテーブルは、年を経るほどに味わいを増した。よい買物だった。当初は文句を言っていたことなど忘れていた。
「こんなに食べ切れないよ、お袋。家帰ったらまた食べなきゃいけないんだからさ」
洋太が迷惑そうに顔を顰めた。言葉と裏腹に、空腹を抱えた箸は重子の渾身の手料理を満遍なく渉猟する。
母親と妻が互いに快く思っていないのを、洋太は知っていた。表向きは当たり障りのない関係である。
しかし、個別に双方の言い分を聞くと、直接悪口を言わなくとも本心が透けて見える。どちらにも一理あるとも思いつつ、洋太の考えは母親に同調しやすかった。
時折、仕事帰りに、都内の実家へ母親を見舞う。妻には内緒である。顔を出せば、必ず食べ慣れた懐かしい味の料理をこれでもかと勧め、年金暮らしの癖にお小遣いまで出そうとする。さすがに一人前の身としては恥ずかしく、洋太は三度に二度はどうにか断っていた。
しかし、今回は話の性質上、妻にも断りを入れた訪問である。それでも母親の手料理を腹一杯食べての帰宅は、妻の機嫌を損ねる。母親も妻に内緒という辺りに喜びを感じているらしいので、洋太はいつも通りに振舞った。
「転勤することになったんだ」
お茶を啜って、洋太は話を切り出した。どうにか食事を控えても、食後のお茶で漬物や果物をどっさり食べさせられる。妻の芙美の場合、食後はコーヒーに洋菓子が定番である。こんなところからも母親と洋太、妻の摩擦が起きるのであった。
「まあおめでとう」
重子は反射的にお祝いを言い、間を置いて表情が曇る。遠くへ行ってしまうのだろうか、という不安が顔に出ている。
「それが、あんまりめでたくないんだ。芙美がこっちに残るってきかないんだ」
「芙美さんが? 家へ来るということけ?」
「……いや、そうじゃなくて、今のマンションに残るって」
洋太の口は重い。妻から重大な使命を託されているのだ。上目遣いに母親の様子を窺う。
「じゃあ単身赴任になるのけ、それも大変だねえ。どこけ?」
「島根県」
「あ、出雲大社があるとこけ。宍道湖も島根だっけ」
「よく知っているなあ」
洋太が母親を持ち上げる。重子は内心得意であった。実のところは、最近テレビで偶然見ただけである。働き場所もなく、あちこち出掛けて贅沢するほど収入もないので、テレビがお友達状態であった。スマホは頑として持たない。
「単身赴任じゃ大変だから、私が一緒に付いていくけ?」
「え、この家どうするんだよ」
いきなり期待した答えを聞き、洋太は驚く。芙美から売るように迫られているのである。
「芙美さん達が使ってくれれば一番いいんだけどねえ……詩奈の学校のこともあるみたいだし、誰かに貸したらいいんじゃないけ。一旦手放したら、葛飾にこれだけの土地を買うことは、あんた達にはできないだろ。この家はもう古いし壊して構わないけど、土地はあんた達の老後にとっておきたいんだよ」
「お袋……」
洋太は年甲斐もなく涙ぐみそうになった。母親の心遣いがじわりと身に沁みる。感動を悟られないよう、蜜柑を手に取り、俯いて皮を剥くのに集中する振りをした。息子を見つめる重子の表情には、満足感が光っていた。
結果から言うと、木村一家は親子三人で島根県に引っ越した。詩奈が陽介に喋った話が、一週間と待たずに幼稚園はおろか何故かご近所中にまで広まってしまい、芙美も引っ込みがつかなくなったのである。
島根には足掛け四年ほど住み、洋太は無事栄転して東京本社へ戻ってくることができた。戻る頃には、新たな家を探すのに島根から上京するのも面倒で、重子の家で一緒に暮らすことがすんなり決まった。
「洋佑、早く食べないと遅刻するよ」
「うっせーな。洗面所いつまでも占領しているんじゃねえよ。大学生はお気楽でいいね」
詩奈は弟と入れ違いで台所へ入り、自分の朝食を用意して席についた。母親は弟と詩奈の弁当を詰めるのに忙しい。既に出勤した父親も弁当持ちである。台所のテレビはつけ放しであった。ニュース番組が流れる。
「……深夜のコンビニばかりを狙った強盗犯が遂に逮捕されました。……犯人は江東区……の田部陽介(二十歳)と十九歳の女性で、二人は交際中だったそうです……」
「洋佑、あんたと同じ名前の奴が掴まったよ」
詩奈はちょうど食卓についた弟をからかった。洋佑は、テレビの画面を一瞥した。
「へっ、女は姉ちゃんと同じ年じゃんかよ」
「そう言えば、詩奈が幼稚園の頃、あなた陽介くんっていう子と仲良しだったわよ」
弁当作りが一段落した母親が口を挟んだ。ええっ、と詩奈が目を剥く。彼女には全く記憶がなかった。名字は?と聞いたが、母親も首を傾げるばかりで思い出せない様子なので、話はそこで終わった。詩奈は食事を終えると手早く仕度を終え、仏壇のある部屋に入った。
「おばあちゃん、行ってきます」
神妙に手を合わせ、すぐに部屋を去る。仏壇の上に飾られた重子の白黒写真が、穏やかに微笑んでいた。