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神事異動  作者: 在江
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前編

 「来年の厄年はこれだけか。年々減りよるな」

 「これだけ繁殖力が落ちると、もはや以前の水準までは回復しないでしょう」

 「親の生活を維持したまま、子どもにも金を注ぎ込むために数減らしとるしな。環境ほるもんとやらの影響も、今後ますます大きくなるやろ」


 一般に陰暦十月は神無月と呼ぶが、出雲においては神月または神有月と呼ぶ。日本中の神々が出雲大社に集まるからである。この時期、出雲以外の土地に神様が全くいなくなってしまうのかというとそうではなく、ちゃんと留守番の神様も存在しているそうである。物事よくできている。神々は出雲まで遊びに来たのではなく、仕事をしに来たのであった。


 「人口が減れば、木目細かい対応もし易いから、満更悪いことばかりではない」

 「そうそう。近頃体を動かさなくなった分、心の病が増えてきているからな」

 「思い出した。出雲殿、この一家の面倒をみてもらえるけ? うちは人口が急増して、ちと難儀だから」

 「関東三大厄除大師の名声が泣きゃーすなも」

 「熱田はんは茶々入れんとき。で、なんでや?」

 「まあ、見てけれや」

 「ははん、木村洋太四十一、芙美三十二、詩奈三に木村重子が五十九か」

 「よくもこんなに揃ったものやな」

 「面白い。うちで貰うて、前厄・本厄・後厄三年間面倒みましょう」

 「やれ有り難い」



 部長以上の役職に就くと、秘書と個室が貰える。広瀬も例外ではなかった。木製の重厚な造りの机と肌触りのよい皮張りの椅子に加えて、小さなガラステーブルを囲んだソファの応接セットが備え付けられている。

 一時間ばかり来客をシャットアウトするよう秘書に言い置いて、広瀬は人事部長室へ閉じこもっていた。

 応接セットのガラステーブルは、今は見えない。広げられた日本地図の下敷きになっていた。広瀬自身は皮張りの椅子に腰掛け、右手に握ったペンをくるくると回しながら独り言を呟く。


 「間宮義信は僻地へ飛ばすことになっていたな。まったく、首にならないだけでもありがたく思えって」

 「ええと、こいつは帰郷転勤させなきゃいけないんだった」

 「柴崎総一郎か。丸井専務の末娘と結婚した奴だな。専務からも頼まれているし、まあ新婚だから、横浜支店ぐらいにしておこうか」


 机の上には、全国の地名が印刷された一覧表と、人名が印刷された一覧表が載せてある。地名が印刷された一覧表では、地名の隣りのマスは手書きで記入するよう空欄となっており、幾つかのマスに人名が記入されていた。広瀬は横浜支店の脇の空欄に柴崎総一郎と記入し、人名の一覧表にある柴崎の頭に×をつけた。広瀬は人名一覧表にざっと目を通し、一覧表を机に置くと、やおらメモ用紙を切り取った。角と角を合わせて対角線を引くように半分に紙を折る。丁寧に何回か折り畳み、広げると、紙飛行機が出来上がった。


 「荻窪紀充」


 広瀬は紙飛行機を右手に持ち、椅子から立ち上がった。机越しに応接セットの日本地図を見やり、右手を前後に動かしながら狙いを定めた。右手がすうっと前方へ動いた。広瀬の手から飛び立った紙飛行機が、流線を描いて日本地図の上に落ちた。広瀬は机を迂回し、ソファの後ろからそっと地図を覗き込んだ。


 「ふむ、宮城か。仙台支店は埋まっていたな。先端が上を向いているから、青森」


 紙飛行機を拾って机に戻り、弘前支店の隣りの空欄に荻窪紀充と記入、人名表の荻窪に×をつける。広瀬は机とソファを飽きずに何回も往復した。


 「木村洋太」


 紙飛行機はぴたりと島根県を指して落ちた。広瀬は、松江支店の脇の空欄に、木村洋太の名前を書き込んだ。



 木村芙美は、目の前が真っ暗になった。よろけて、台所の椅子にぶつかり、はっと我を取り戻した。夫である洋太の表情は、何事もなかったかのように変わらない。夫もショックで、妻の異変に気付くどころではないのかもしれない。あるいは、芙美の目の前が暗くなったのは、秒にも満たない僅かな時間だったのかもしれない。


 「松江って、どこ?」


 やっとのことで、芙美は言葉を搾り出した。一拍遅れて、夫が鈍重な牛のようにのろのろと顔を上げた。


 「島根県。中国地方。鳥取と広島と山口に囲まれた、日本海側にある県」


 会社で内示を受けた際に調べたのだろう、丸暗記したような口調でだらだらと言葉を吐き出す。それは、芙美に牛が涎を垂らしている様子を連想させた。


 「松江は夏目漱石の『坊ちゃん』で有名だよ」


 少し間を置いて付け加えた。夫の表情から、芙美は自分が怒っていることに気が付いた。同時に、怒りが爆発した。


 「あれは、都会育ちの坊ちゃんが田舎者を馬鹿にする話! 大体、『坊ちゃん』の舞台は愛媛の松山よ。あなただって四国との区別がつけられないじゃないの。折角ご近所とも親しくなれたのに。詩奈だって、やっと苦労していい幼稚園入れたのよ。お義母さんだって東京に居るし。いきなりそんな田舎へ行かなくたって、いいじゃない」


 芙美は言葉を切った。彼女は、短大の国文学部を卒業している。さすがに、『坊ちゃん』の概要は知っているものの、その記憶が本を通読したものなのか、教科書で抜粋を読んだものなのか、それとも何かのあらすじを読んだだけなのかは判然としない。


 洋太はいつものように、芙美が全部言い終わるまで口をへの字に結んで反撃しようとしなかった。彼女の言葉が途切れたのが、息継ぎのためなのかどうかしばらく様子を窺った後、ゆっくりと言った。


 「確かにお袋の家は東京にあるけど、俺たちが今住んでいるのは賃貸マンションだろ。向こうへ行けば社宅が借りられる。一緒に住んでいたら、また違っていたかもしれない」

 「何それ。あたしが悪いって言うの?」


 洋太が言い終わらないうちに、芙美は畳みかけた。そして反論する間も与えず、激した口調で言葉を継いだ。


 「あたしは詩奈の将来やあなたの通勤の便まで考えて、江東に住んでいるのよ。あなただって賛成したじゃない。お義母さんにも一緒に住もうって声かけたのに、迷惑かけるからって、あちらから断ってきたのを忘れたの? 大体、あなたがのんびりしているからいけないのよ。あたしの友達の旦那さんは、もうみんな部長補佐や部長に昇進して、独立して社長になっている人までいるのよ。未だに課長なんて、あなたぐらいよ」


 洋太は妻の無茶な言い分に反論する様子もなく、情けなさそうにテーブルの上へ目を落とした。冷え切った夕食の残りが小皿に盛り分けられていた。


 「転勤は断れない。どうするんだ?」

 「あたしは行かないわ」


 芙美はきっぱり宣言した。洋太は答えを予想していたように軽く頷き、瞬きもせずに妻を見た。


 「世帯を分けても、家計は大丈夫なのか。お袋に仕送りしてくれているだろ」

 「お義母さんには貯金と年金があるじゃない」

 「まだ年金が出るには早いよ。貯金だって減る一方だ」

 「この際だから、あの家と土地を売っちゃえばいいのよ」


 簡単に言ってのける妻を、洋太は睨みつけないよう、苦労して表情を抑えた。小さい頃からの思い出が沢山詰まった家である。いつかはあの家へ帰ろう、とぼんやり思っていた。芙美も拙いことを言ったと気付いたらしく、気まずい沈黙が続いた。二人とも、台所と居間の境にある引き戸の隙間から覗く目の存在を知らなかった。

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