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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

わたしの龍神様~ハズレの姉姫は愛に溺れて~

作者: 相野仁
掲載日:2022/05/09

「かわいそうなお姉さま」


 という妹・ユリ姫の言葉は同情ではなく、侮蔑と嘲弄だと姉のトキ姫は気づいている。


 でも、彼女は黙って耐えるしかなかった。

 二歳違いの妹姫は彼女より要領がよく、両親や使用人たちから好かれている。


 おかげでトキ姫は「ハズレの姉姫」と使用人たちに陰口を叩かれるありさまだ。

 中にはわざと彼女自身に聞こえるように言う者もいる。


 両親はとがめるどころか、「ユリのような娘がもう一人いれば」とトキ姫の前で嘆く始末。


 同じ両親から生まれた姉妹なのにという嘆きを、トキ姫はけっして表には出さない。


 もし、知られれば彼女を嘲弄する者たちからよりいっそうつらい仕打ちを受けることが、目に見えているから。


「はぁ……」


 お屋敷の外に出れば「あれがハズレの姉姫」というひそひそ声が聞こえてくる。

 さすがに遠慮があるものの、トキ姫にとって何の意味もない。


 彼女にとって唯一のなぐさめは、川を泳ぐ魚をながめることだった。


「魚は泳いで行けていいわね」


 もちろん魚には魚なりの苦労があるのだろうと、トキ姫はわからないわけではない。


 だが、彼女にとって望まぬ場所から移動できることそのものがうらやましかった。

 魚のように、あるいは空を飛べる鳥のようになれたら。


 かなわない願いだと理解していても、空想を止めることはできない。

 やわらかい地面に腰を下ろし、春の薫りを運ぶ風に頬をやさしく撫でられる。


「……あら?」


 視線を川に戻した時、とある部分がうっすらと光っていることに気づいた。


「おかしいわね」

 

 水面は太陽の光を美しく映しているものの、太陽と光くらい趣が違っている。


「太陽と月、か」


 彼女の表情に影がさす。

 太陽のユリ姫、月のトキ姫という表現を思い出してしまったのだ。

 

 月の美しさを讃える詩はいくらでもあるものの、これはトキ姫を褒めているわけではない。


 太陽のような妹の光にかき消されて目立たない、あわれでみじめな姉という揶揄である。


 頭をふって暗い感情を一時的にでも外に追い出す。

 せっかくみじめな日常を忘れるためにこの場にいるのだから。


「行ってみましょうか」


 行ってみたところで、どうせ今よりも悪くはならないという確信が彼女にはある。

 それでも大胆に行動する勇気はない。


 腰が引けたまま、おそるおそる寄っていくと、傷ついた小さな魚がうっすらと光を放ちながら、河原の上で小さくはねている。


「さかな……?」


 光を放つ魚なんて見たことも聞いたこともない。

 だけど、もしも魚ならこのまま放置していると死んでしまうだろう。


「まるでわたしみたいね」


 彼女の唇から出たのは自虐ではなく、同情と共感だった。

 事情などわかるはずもないが、目の前の小さな魚は己の境遇に重なってしまう。


「……あなただけでも」


 彼女はささやき声で話しかけると、魚をやさしく川の中に戻してあげた。


 小さな魚は礼を言うように尾びれを揺らしたあと、ゆっくりと上流を目指して泳いでいく。


 自分でも何かができたのだと思えば、彼女にとってささやかな救いになる。


「……帰りましょう」


 トキ姫は気が進まないまま、来た道を引き返す。

 彼女のことを顧みず、愛情を注がないくせに、両親は彼女を束縛する。


 「妹と比べればかすんでしまう姉姫」が屋敷の外を出歩くのは、外聞がよくないと本気で信じているようだ。


 それでいて、まったく外に出さないと幽閉や虐待のうわさが立ってしまうものだから、もてあまし気味である。


  両親の冷え切ったまなざしと、チクチクと針で心を刺すような小言の両方を浴びせられるのは避けたい。


 早足で屋敷の庭に駆け込むとユリ姫の楽しそうな笑い声が聞こえる。

 隣にいるのはトキ姫の幼馴染の直弼だった。


「おや、月の姫君か」


 と彼女を見て言ったのは直弼のほうで、彼こそ姉妹姫を太陽と月に最初にたとえた張本人である。


 二人の幼馴染だけあって家柄もよく、将来を嘱望されている若者だ。

 でなければさすがに高貴な姫君たちに対する無礼だとみなされたかもしれない。


 もっとも、トキ姫に関しては両親は抗議しなかっただろうと、姫本人は思っている。


「ねえ、あまりかまってはお気の毒よ。お姉さまはお一人が好きなのですから」


 とユリ姫は直弼の裾を引く。

 一見彼女は姉をかばっているように思えるが、実はそうではない。


 現に彼女の口元にはうっすらと冷笑が浮かんでいる。


 姉に同情し、かばうような態度を見せつつ、実のところ彼女を侮蔑し、孤独なままでいるように仕向けていた。


 トキ姫はうすうす感づいているものの、言葉にしたことはない。


 妹は素直に認めるような性格ではないと知っているし、仮に認めたとしても自分に味方はいないとわかっているのだから。


「失礼するわ」


 妹だけならともかく、直弼もいるのに無言で立ち去るのは礼を欠いた行為だ。

 トキ姫は自身が周囲に責められる理由を増やしたくない一心で、礼を守る。


「ああ、呼び止めて悪かったね」


 すこしも悪びれずに直弼は応じた。


 彼のほうでも高貴な血を引く姫君に対する礼儀を形ばかり守っただけなのは、疑う余地がない。


 トキ姫の心はあっという間に真冬に逆戻りしたように冷えていた。


「おや? あれは雷雲?」

 

 何気なしに視線を遠くにやった直弼が驚きをあらわにする。


「まあ、雷ですか。こわいわ」


 ユリ姫は彼に身を寄せて甘えた。


「はは、ここまで離れているからきっと平気だよ」


 直弼はトキ姫に向けていたものとは違い、やさしくあたたかく包み込むような笑顔で対応する。


「けど、どうして突然雷雲が生まれたのかしら? 季節はずれではないかしら?」


 落ち着きを取り戻したユリ姫が訝しむ。


「さてね。魚が龍に成る時、雷をまとうという話はあるけど、異国の伝承だったはずだし」


 直弼は異国の逸話にも知識があることを見せたが、それが答えとは思えずに首をひねった。



 時は流れ直弼とユリ姫の祝言の日がやってきた。

 場所はユリ姫の実家が治める領国サガミ国の神宮である。


 華やかな会場で華やかな衣装に身を包んだ参列者は、見た目とは裏腹に陰湿な会話をしていた。

 

「妹姫は直弼殿という立派な殿方がいらっしゃるのにねぇ」


「おかわいそうなこと」


 まだ決まった相手が見つからないトキ姫に対する、周囲からの言葉である。


 憐憫という布に包まれた侮蔑、嘲弄が見えない針となってトキ姫の心に突き刺さった。


 もちろん言葉にする者たちは、己が何をしているのか充分承知している。


 トキ姫はさながらまな板の上に乗せられて、無数の鋭利な刃物を突き立てられる魚のよう。


「こうなると思っていたわ」


 十八になったトキ姫はすっかり笑顔を忘れ、鉄面皮と揶揄される表情のまま席に座っている。


 両親の命令に逆らう勇気を出せなかった彼女は、何とか水準には届いているものの、列席者の中では明らかに劣った服を着ての参加だった。


 両親はことさら彼女にみじめな思いをさせたいのではなく、ただ彼女の心がどれだけ悲鳴を上げようとも興味がないだけ。


 冷酷ではなく無情というべきだろうか。


 やがて彼らの会話が途切れ、ユリ姫と直弼の夫婦が会場に入って来て、一同から感嘆の声が上がる。


「ユリ姫さまのお美しいこと。本当にサガミ国はもちろん、アキツシマ一の宝石かもしれませんわ」


「並び立つ直弼殿の男ぶりよ。サガミ国一の若武者に違いない」


 彼らはこぞって二人を褒めそやす。

 トキ姫をのぞいた全員が心から彼らを祝っているのだった。


 実際、彼らの名はサガミ国のみならず、アキツシマにも届く。

 ほとんどうわさ話という形で。


 無事に祝言が終わり、トキ姫は針のむしろの上からようやく降りることができたと安堵する。


 そっと出て行こうとしたところを、両親に呼び止められて仕方なく人がいない部屋についていく。


「直弼殿にはこのサガミ国を継いでもらうつもりだ」


 と父が前触れもなく切り出す。


 彼の子はトキ姫とユリ姫の二人だけで跡取りに恵まれなかったのだから、婿を迎えるのは当然のことだ。


 直弼は領主にふさわしい家柄も能力も備えていると評判だし、トキ姫ですら異論はないくらいだから、何もおかしなことではない。


 なのにどうして胸騒ぎがするのだろう。


「それでだが、将来有望な婿殿の近くに未婚の娘がいるのは外聞が悪い。姉妹で婚姻などとうわさを流布されてはたまらんからな」


 アキツシマでは一夫多妻、重婚のたぐいは認められていない。


 実のところ抜け道がないわけではないのだが、厳格で実直な父親が使うとはトキ姫ですら思わなかった。


「……つまりどういうことでしょう?」


 と尋ねたトキ姫は己の明日に何がふりかかるのか、想像できなかったわけではない。


 ただ、あまりにもひどい命令が父の口から出てくるなんて、信じたくないという気持ちがあった。


「察しが悪いな」


 彼女の最後に残された想いのかけらを踏みにじるように、父親はいら立ちを見せる。


「お前には屋敷から出て行ってもらいたい。いや、屋敷のみならず、サガミ国からだ」


 トキ姫に走った衝撃は、本人にも意外なほど小さい。

 無意識のうちに心の準備ができていたのかもしれなかった。


「それさえ守るなら、お前は自由だ。好きにしろ」


 と言い残して父は母をともない、部屋から出て行く。


 母は一言もしゃべらないどころか、最後までトキ姫と目を合わせようとしなかった。


「自由、ね」


 トキ姫は笑おうと知って失敗し、表情が引きつる。


 自由と言えば聞こえはよいが、教養を身に着ける機会も、人と知り合う場も彼女はいっさい与えられなかった。


 頼れる人も一人で生きる知識も、何もない世間知らずの小娘が屋敷を追い出されて、どうして生きていくことができるだろう。


 不幸なことにトキ姫は両親が思っているほど愚鈍ではなく、遠回しに死を望まれたのと同じだと気づいていた。


 サガミ国から出ていけというのは、彼女の顔を知る者がいないところで死ねということだろう。


「いえ、違うかもしれないわ」


 トキ姫は己の推測の一部に疑問を抱く。


 本当に国の外に出て行ってもらいたいなら、必要最低限の路銀くらいは与えられるはずだ。


 もし、屋敷に戻って何も与えられないなら、屋敷から追い出して家から存在を抹消できればかまわないということ。


 ……路銀すら与えられなかったことでどちらの予想が正しかったか、トキ姫は思い知った。


 着替えすら持つことを許されず、トキ姫は住み慣れたけれどよい思い出のない屋敷をあとにする。


 行くあてなどないに決まっているけど、彼女にもなけなしの意地があった。


「せめてお屋敷から離れた場所に行きましょう」


 死に顔を見られれば、同情し悲しむふりをした嘲弄をいやというほど浴びせられるだろう。


 それはよくても自分が死んだら喜ぶ人たちが、すぐに気づける位置だけは避けたい。


「山か森に行けば土に還れるのかしら」


 そういう話があるらしいとうわさ話をたまたま聞いて知っていた。


 すくなくとも人里をみじめにさまようよりはましと思い、彼女は何度か通った森のほうへ足を運ぶ。


 ささやかな憩いの場だった川や緑も、今は何だか物悲しい風景に映る。

 心境の変化がここまで印象に影響を与えるなんて、彼女は知らなかった。


「そう言えばあのお魚は元気かしら」


 言ってからすぐに彼女は己の愚かさを恥じる。

 あれからいったい何年が経過したというのか。


 あのような小さな魚が今まで生き延びているなんて、まず考えられないことだった。


 人が来ない場所で残された時間、美しい景色をながめて過ごす。

 ほかには何も考えないようにしようと彼女は自分に言い聞かせる。


「そこのお嬢さん」


 なけなしの決意は若い男の声であっさりと崩れた。

 無視する勇気のない彼女は、仕方なく声がした方向へ視線を移す。


 そこには白い都風の服装をした、見覚えのない男性が一人笑顔を浮かべて、彼女を見ている。


「はい、どちらさまでしょうか?」


 ひと目見たら忘れられなくなりそうな端正な顔だちにどきりとしたものの、それはわずかなこと。


 美青年や美少年の視線と称賛を集めるのはいつも自分ではなくて妹。


 過去の体験から期待はすぐに捨てる癖が身に着いたトキ姫は、礼を失せぬようなふるまいを心がけて対応する。

 

 己の生をあきらめたのだからもう礼を守る必要はないはずなのに、今までせめてもの防衛手段としてやってきた行動は、急には変わらなかった。


「あなたはかつて小さな魚を助けて、川に返してやりませんでしたか?」


「ええと」


 青年の問いにトキ姫は困惑する。


 たしかに自分がしたことだけど、どうやって証明したらよいのだろうという不安が真っ先に浮かんだ。


 基本的に一度も自分の意見を聞いてもらったことがない少女の哀しさである。


「私はその時の礼をしたくて、人を探しているのですが」


 と美しい青年は言うものの、意味ありげにトキ姫の目を見つめた。


 見たことがないほど美しい青年に見つめられて、年ごろの娘らしい恥じらいが彼女にやってくる。


 本人よりも早く青年のほうが先に気づく。


「おや、失礼しました。ご令嬢を見つめるなんて」


 彼は謝ったもののすぐに、


「ただ、恩人を探していて必死なのです。わかってください」


 と頼み込む。

 その熱量についついトキ姫はうなずいてしまった。

 

 トキ姫は視線を青年から外して懸命に呼吸をととのえて、ようやく声を放つ。


「わたしは似たようなことをした覚えはありますが、証明するものは何もありません。ほかの方ではないですか?」


 彼女の目と声には諦観が宿っていた。


 年ごろの娘が誰もが夢中になりそうな美青年と知り合う運命なんて、自分に待っているはずがない。


「いいえ、あなたですよ。優しい魂の鼓動は忘れるはずがありません」


「えっ?」


 まるで青年が魚自身であるかような言い方が、ほかの疑問点について考える余裕をトキ姫から奪った。


「これで信じていただけますか?」


 青年の差し出した白い右手が魚の鱗とヒレに変わり、トキ姫は息を飲む。


「は、はい」


 あやかしとも呼ばれる人ならざる存在について彼女は聞いたことがあった。

 あの時たまたま助けた魚がまさかそのような存在だったなんて。


「お礼をしたくてこうして参ったのですが、受け取っていただけますでしょうか」


 美しい青年の笑顔にトキ姫は視線が吸い込まれそうになりつつ、


「お礼とはいったい何でしょうか?」


 残った理性をふり絞って質問をする。

 あやかしと呼ばれる存在の礼は何なのか、想像もつかない。


 六割の不安と四割の好奇心が彼女の心を占めていた。


「これは失礼しました」


 あやかしは非の打ちどころがない一礼をしてみせる。


「あまりにも心が逸っていたので、順序を間違えてしまったようです」


 恥じ入る様子もどこか芝居じみて見えるのは、おそらく抜群によい容姿のせいだろう。


「私の名は、カヅとお呼びください」


「カヅさま、ですか」


 珍妙な名前だが、あやかしの流儀に則ったものなのだろうとトキ姫は解釈する。


「はい。お礼なのですが、何を差し上げたらよいでしょう? あなたの望むものを差し上げたいのですが」


「わたしをここからさらってくださいませんか。どこか遠くへ」


 カヅと名乗った青年の問いかけに彼女は即答した。


 たとえこの青年が悪者で自分に対して邪心を抱いていてもかまわない、という気持ちだった。


「それがあなたの望みなのですか?」


 たしかめるような質問に彼女は力強くうなずく。


「かしこまりました。それがあなたの望みならばかなえましょう」


 ヅチが一礼して指を鳴らすと、不意に立派な馬車が出現する。


 怪奇現象そのものを目の当たりにして、トキ姫は息を飲んで思わずあとずさりをした。


「こわがることはありません。すくなくともこの私だけはあなたの味方です」


 トキ姫は彼の言葉を信じたのではなく、信じたかったのだ。

 彼女が馬車に乗り込むとすぐに走り出す。


 身も心もふわふわと浮かぶような感覚に包まれる。


「よければお飲みください」


 対面に座ったヅチが差し出した湯飲みに入ったものを、すこしためらったのち口につけた。


「あら、美味しい」


 ただの水というには味があまりにも素晴らしく、彼女は目をみはる。

 心の底によどんでいた暗いもやが晴れるような、不思議な力があった。


「よかったです」


 ヅチは安堵の笑みを浮かべる。

 

「わたしはこれからどうなるのでしょう?」


 人心地ついたところでトキ姫は不安と好奇心の両方がふたたび首をもたげた。


「私の屋敷にご案内しようかと思っています。そこで楽しく暮らしていただければよいでしょう?」


 今のトキ姫にとってすごく魅力的な提案をされる。


「ええ、そうですね」


 ためらったのはわずかな間で、彼女は同意した。

 死ぬつもりだったことを思えば、どこで暮らそうとも同じこと。


 本当にヅチが自分を恩人だと思っているなら、悪い方向には転がらない。


「つきましたよ。姫」


 ヅチの言葉と視線につられて外を見ると、とても広くて立派な異国情緒あふれる屋敷があり、多数の使用人らしき者たちが頭をさげて彼女たちを出迎える。


「まあ」


 サガミ国領主の娘であったトキ姫すら、一度も見たことがない光景に思わず声が漏れた。


 アキツシマ皇が暮らす宮殿でさえかなわないのではないかと思うほど。


「さあ、お好きなようにくつろいでください」


 ヅチの言葉にうなずいたものの、トキ姫は気後れしてしまい、くつろぐどころではない。


「お好きなものは何でしょう? お茶? 果実水、花水? それともお菓子がよいでしょうか?」


 質問されたトキ姫はいらないと答えかけたものの、すぐに考えを変える。


「ではお菓子と果実水を」


 いつまで続くかと言えば、おそらくヅチの気分次第。

 ならばなるべく美味しそうなものを先に味わいたいとトキ姫は考える。


 実家にいたころ妹姫にしか与えられなかったのがお菓子、巷で人気の果実水だったのだ。


「かしこまりました」


 ヅチが手を叩くと、華やかな色とかぐわしい香りの水、それから異国のお菓子がきれいなお盆に乗せられて運ばれてくる。


「お好きなだけ召し上がれ」


 そこからトキ姫にとって夢のような時間がはじまった。


 幸せすぎてどれだけの日数が経過したのかわからなくなったある日の朝、トキ姫はふと屋敷の庭を散策する。


「門の外に出なければよかったわよね……」


 正確には「付き添いなしで門の外に出ないで欲しい」というのが、ヅチからのお願いだった。


 あやかしの屋敷には相応の掟や法則があるのだろうと、トキ姫は逆らうつもりはない。


「雨神さま」


「龍神さま」


 門の外から老若男女のすがるような声が聞こえてきて、彼女は思わず足を止める。

 事情も理屈も何もわからないが、なぜか彼女の心に響いてきた。


「ここにいらっしゃいましたか、姫」


 そこにヅチがいつもの笑顔でやってくる。


「ヅチ様。この声はいったい?」


 迷ったものの、知らないふりはできないと思い、トキ姫は率直に尋ねた。


「ああ、聞こえてしまったのですね」


 ヅチの表情から一瞬だけ笑顔が消える。


「あの声は私に祈る者たちの声ですよ。かなえるかどうかは私次第なのですが、聞かないわけにはいかないのです」


「で、では、あなたは……あなた様は雨をつかさどる神さまなのですね?」

 

 答えを聞いたトキ姫の声が震えた。


 けっして愚鈍ではない彼女は、あやかしだと思っていた青年の正体を思いついてしまった。


 彼女からの視線が親しみから畏怖に変わってしまい、ヅチは悲しそうな表情を浮かべる。


「ホノイカヅチ。それが私の本当の名です。正体を明かせば親しんでもらえないのではないかと思い、今まで隠しておりました」


「ホノイカヅチさま……」


 雨を降らせ、稲妻を轟かせ、火を起こす龍神ホノイカヅチ。


 都の立派な神社に祀られていて、アキツシマ全土に信仰する者がおり、日照りや大雨に苦しむ民が慈悲をこう大いなる神。


「今まで通り親しみを込めてヅチと呼んでもらうほうが好みなのですが」


 諦観の表情にトキ姫は胸が苦しくなる。

 とても幸せな時間を過ごせているのは、目の前の神さまのおかげに違いない。


 ならば恐れ多いながらも、ささやかな願いを応えるのはやぶさかではなかった。


「ではヅチ様とお呼びしますね」


「ありがとう」


 ヅチの表情は今までのなかで一番素敵で、さんざん見慣れたはずのトキ姫ですら、目を奪われてしまう。


「それにしても」


 ヅチは視線を門の外へずらす。


「彼らの声は普通の人には聞こえないはずなのですが、やはり姫はとてもお優しいのですね」


「そうでしょうか?」


 トキ姫は自分が優しいのかどうか判断がつかない。


「彼らは……たしかあなたたちの言葉でムサシ国の者ですね。何日も雨が降らず、困っているようです」


 ヅチの言葉に彼女は耳をかたむける。

 

「どうしますか?」


「えっ」


 突然の問いに彼女は目をみはった。


「ヅチさまがお決めになるのではないのですか?」


 いつどこで雨が降るかということは神の領分であり、人の身で口を出せるはずがない。


「そうですが、あなたが助けたいと思うなら、助けますよ」


 ところがヅチはトキ姫の心次第でかまわないと答える。

 彼女が想像しているほど神の掟は厳格ではないのかもしれない。


「……助けてあげて欲しいと思います」


 悩んだすえに彼女は答える。


 彼女は今までずっとつらい目にあってきたのに、誰も助けてくれなかったという暗い思いがある。

 

 だけど、同時にそれはムサシ国の人ではない。


「わたしはつらい思いをしてきて、誰にも助けてもらえなかったので、だから助けてあげられるなら、助かって欲しいなって」


 話しているうちにトキ姫は心も思考も乱れてきた。


「よく言いました。やはりあなたは優しくて、素敵な人だ」


 ヅチは優しく彼女からこぼれる涙をぬぐい、それからそっと抱きしめてくれる。

 ヅ触れ合うのは初めてだったが、彼女はすこしもいやな気持ちにならない。


 それどころか安心できる。


「あなたの願い、このホノイカヅチがかなえましょう」


 とヅチは言った。



 ムサシ国は都の西部に広がる農地を持つ国だが、雨が欲しい時期にひと月も雨が降らず苦しい日々を送っていた。


 領民たちは雨神と、大神ホノイカヅチへの祈りを毎日おこなっているが、結果は実らない。


 神は必ずしも祈りに応えるとはかぎらないという言い伝え通りなのか、と人々が諦めはじめたころ。


 ムサシ国にあるホノイカヅチを祀った祠の上に黒雲が起こって雷が落ちた。


 突然のことに息を飲む人々の前にひと柱の純白の龍が若い娘とともに姿を見せる。


「我はホノイカヅチとそなたらに崇められるもの……我が巫女トキが望むように、そなたらの願いに応えてやろう」


 神々しい言葉がつむがれた直後、みるみるうちに雲が広がっていき、雨が降り出した。


 降臨したホノイカヅチの威に打たれて声を失っていた人々は、大きな歓声をあげる。


 涙を流して喜ぶ人々の声は、やがてホノイカヅチとその巫女、すなわちトキ姫への感謝に変わった。


「ホノイカヅチさま! 巫女トキさま! まことにありがとうございます!」


 人々は歓喜のあまり、巫女トキの名を聞いたことないということはどうでもよくなっている。


 この事態にトキ姫はついてこれていないのだけど、過去のせいで培った平常をよそおう技術で何とかしのぐ。


 彼女を巫女として人々の前に連れていくのは、ホノイカヅチが彼女の願いをかなえる条件として出したものだった。


 彼女に理由はわからなかったけれど、これだけの人が泣いて喜んでいるのだから、よかったのだろうと考える。


「感謝なら我が巫女にするのだな」


 とホノイカヅチが言うものだから、巫女となったトキは熱狂する人々からさらに讃えられ、大いに困惑することになった。


 それからしばらくの間、ホノイカヅチの屋敷で暮らしながら、時おりムサシ国の様子を見に来ていたトキの下へ、都からの使者がやってくる。


「失礼。龍神ホノイカヅチさまの巫女、トキ殿でいらっしゃいますね」


 すっかり認知されているのか、使者はトキに対して非常にていねいだった。


「まさか……」


 とトキは思わざるを得ない。


 このような場合、使者として選ばれるのは領主や宮廷貴族に列せられるとても身分が高い人にかぎられる。


 彼女は知識は持っていないけれど、サガミ国領主の娘だっただけはあって、直感的に悟ることはできた。


「都も雨が足らず困っておるのです。ぜひともお力添えをいただきたく」


「わ、わたしの一存では決められません」


 トキは勇気を振り絞って必死に主張する。


 ホノイカヅチは彼女の願いをかなえると言うが、限度があるのかどうかさえ、彼女には知る由がない。


 大いなる神の寵愛が無限だと決めつけるのは、彼女にとって非常に恐ろしいことだ。


 そしてほかの人々にトキに頼めばホノイカヅチは応えてくれると誤解されるのは、さらに恐ろしい。


「ホノイカヅチさまの御心は、わたしには計り知れぬものです。ただ祈るしかできないという点において、みなさまと変わりません」


「では、一度都にお越しくださいませんか」


 必死の訴えを聞いた使者は、彼女にとってよくわからぬ提案をしてくる。


「あなた様が都にいらっしゃり、都をごらんになってください。きっとホノイカヅチさまはあなた様を通して、都のことを知るでしょう。その上でどうお考えになるかは、まさに『神のみぞ知る』ですな」


 どうやらトキの目を通じて都のことを知ったホノイカヅチが、心を動かしてくれる可能性に賭けたいらしい。


「……ホノイカヅチさまにうかがってみて、お許しが出たらでもよいでしょうか?」


 トキにしてみれば譲れない点だった。


「当然ですな。神をないがしろにするなんて、恐れ多いにもほどがあります」


 使者の男性の表情には明らかな畏怖の念があったため、彼女は多少なりとも彼を信じてみてもよい気になる。


 人々に祈られ慣れているホノイカヅチが簡単に心を動かすとは彼女には思えなかったものの、理屈ではない部分で都の願いを無下にできなかった。


 使者が帰ったあと、迎えに来たホノイカヅチに彼女はさっそく頼んでみる。


「ヅチさま」


 相変わらず愛称で呼ばれたいらしいため、彼女はそれに従っていた。


「ああ、知っていますよ。都に行ってみたいのでしょう」


 さすが大神とも呼ばれる龍神だけはあり、トキの身に何があったのかすべて把握しているようだ。


「あなたの心が明るいようだし、かまいませんよ」


 さりげなく彼女の内面すら見通してくるあたり、やはり人を超越した存在に違いはない。


 

「わぁ……」


 都にやってきたトキは感嘆の声を漏らす。

 都は手入れが行き届いて清潔で、人々はみな血行がよく、治安もよかった。

 

「すごい」


 領主の娘で、ホノイカヅチの力の一端として人々の暮らしに触れる機会を得た彼女は、皇の善政が行き届いているのだと理解できる。


「きっととても立派な方なのね」


 彼女は皇に会える身分ではなかったし、会う機会もないだろうけど、好感を持てた。


 もっとも雨が不足してきているせいか、人々の表情には不安が見られる。


「気に入ったようですね」


 平凡な青年のふりをしているホノイカヅチが微笑む。


「ええ」


 彼に隠し事はできないとトキは素直にうなずいた。


「ではよいでしょう」


 と彼は言うと、いきなり彼女を抱いて空に舞い、純白の龍の姿に変わる。

 驚きと悲鳴が起こるのを意に介せず、ホノイカヅチは叫ぶ。


「都の者たちよ。我はホノイカヅチなり。我が巫女トキの願いをかなえ、そなたらが望む雨を降らせてやろう」


 たちどころに雨雲が起こり、民衆が望んていた雨が降りそそぐ。


「わぁ! ホノイカヅチさま、万歳!」


「巫女トキさま、万歳!」

 

 人々の歓呼を聞いたトキは不安そうな声で、


「あの、わたしも万歳の対象になってしまっているのですけど?」


 とホノイカヅチに話しかける。


「私はあなたの願いを聞いただけですからね。あなたにも感謝するのは筋が通っています」


 龍神の答えを聞いた彼女はひとまず安心した。

 彼らを讃える声は宮殿まで伝播していき、貴族や皇の耳にも届く。


「何とか褒美を出したいものだが、龍神の巫女に対して不敬になるか?」


「さっそく調べてみましょう」


 皇の言葉を聞いた近侍たちは調査をはじめた一方で、直接彼らのところに足を運んだ者もいた。


「トキ! 私がわかるかい? 幼いころ、一緒に遊んだ直弼だ!」


「お姉さま、お元気そうで何よりですわ!」


 直弼とユリの夫婦である。


 彼らはトキから見て寒々しいほど好意的な表情で、あるいはそれをよそおって、話しかけた。


「サガミ国でも最近雨が足りなくて困っているんだ」


「お姉さまにとって思い出深い故郷でしょう?」


 夫婦の狙いに気づいたトキが口を開こうとした瞬間、


「黙れ! 下郎!」


 ホノイカヅチが一喝する。


「そなたらが巫女トキにしてきた非道の数々、私が知らないと思ったか? これから報いを受けるがよい」


 ホノイカヅチは冷ややかに切り捨てた。

「ひっ」


 直弼は真っ青になり、ユリ姫は悲鳴をあげる。

 感情のこもらない言葉からにじむ、神の怒りに二人は何もできなかった。


 彼らのやりとりを聞いていた人々たちは、「サガミ国領主の姫と婿が龍神ホノイカヅチの怒りに触れた」とうわさし合い、すぐに話が広がる。


 おかげで夫婦は都にはいられなくなり、逃げるようにサガミ国に戻った。


 直後からサガミ国ではいっさい雨が降らなくなり、たちまち民が苦しむようになる。


 直弼とユリ姫が龍神ホノイカヅチを怒らせた結果だということは、サガミ国内でも広まり二人の評判は地の底まで転落してしまう。


「よりにもよって龍神ホノイカヅチさまを怒らせるなんて」


「サガミ国もおしまいか」


「俺たちはこれからどうなるんだ?」


 サガミ国で暮らす人々は暗い表情で、雲一つない空を見上げながら話しあった。


 かつて彼らが時には嘲弄し、時には無視してきたトキ姫がホノイカヅチの巫女となった話は彼らの耳にも入っている。


 怒った龍神の報復はまだまだ続くかもしれない、という予感と不安が国内を包んでいた。


 そこに都から龍神と巫女トキの件についての厳しい質問、および当主を呼び出す書簡が届き、領主一家にさらなる追い討ちをかけた。

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― 新着の感想 ―
青年がカヅと名乗ったが馬車に乗ってから謎の人物ヅチとの会話になっていますが、名前変更したけど修正しなかったとかでしょうか?
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