第二話 邂逅!!
男の子だった。
彼は気の弱そうな目を大きく見開いて千絵を真っ正面に見つめながら、彼女と同じく息を切らしている。真っ白な彼の顔には不安と当惑の色が見えたが、私の手をしっかり握っている。
千絵はもっと深い水の中にいたと思っていたけれど、立ち上がった彼女の膝下程度にしか水深は無かった。千絵は男の子と手を結んだまま、脚を水に浸しながら真っ赤な世界に立っていた。
千絵は男の子を見つめた。
制服を着ているし、高校生? たぶん年下かな。きっとこの子が私を助けてくれたんだ。それにしてはちょっと頼りない気もするけど。
「ありがとね、助けてくれて」
千絵が言うと、男の子は呆然としたまましばらく間を置いて
「いや、全然。あまりに突然だったから驚いたけど」
周囲を見渡すと、千絵が良く知る場所だった。
彼女が暮らす京都の町、たぶん三条近くで、だからここは鴨川の真ん中だ。二人の背後には、両岸をつなぐ飛び石が並んでいる。
プール空間の暗闇からの脱出時、この世で一番綺麗に見えた赤色の世界は、毎日見ているはずの鴨川の夕焼けだった。
でも、すこし何かが違う。ここは、私の世界じゃない。千絵はすぐに確信した。
ここは私の世界とよく似た世界。この世界には何度か来たことがある。
鏡写しの世界。
千絵は全部で八つある世界のうち、ここを便宜上そう名付けていた。
ふと、千絵は彼と手をつながれたままの左手にちらりと目をやった。
「あのさ、そろそろ……」
彼は慌てて手を振りほどいた。「ごめんなさい! 気づかなかった」
引っ込めたばかりの彼の腕は、夕焼けに照らされて真っ赤だけれど、たぶんそれは色味が映えるまっさらなキャンバスで、本当は透き通るほど白いのだと思う。白くて細くて頼りない腕。でもその腕が私を助けてくれた。
「君、すごいね。プール空間に腕を突っ込んで引きずり込むなんて、出来るんだね」
彼はまたしばらくの間きょとんとした。
「……プール? もしかして、ここで泳ごうとしていたんですか?」
と、あまり話が噛み合わない。
「いや、だからさ──」
千絵は言いかけて口をつぐむ。
もしかしたら、彼は時空旅行者ではない! この世界に暮らす、あくまで普通の人。勝手に仲間だと思い込んでいただけかもしれない。千絵は自分が犯しそうになった失態を顧みて思わず血の気が引いた。時空旅行者は他人にそれと知られてはならない。その存在は世界の歪めるものだから。その世界の物理法則にそぐわない存在が多くの人に知られることで、その歪みはさらに大きくなり、やがて消滅する。歪みを防ぐ、世界の自浄作用だ。
彼は時空旅行者か、それとも一般人か。
「ねえ、私がどこから来たか、わかる?」
確かめるべく、千絵はすこし探りを入れてみることにした。
「後ろから……ですか? 飛び石に座ってぼーっとしていたら、いきなり大きな音がして、振り返ってみるとあなたが溺れてて……」
彼はあくまでも普通の人だった。時空を旅する能力も無い。鴨川に転移した千絵を、単なる善意で救ったらしい。だとしたら、プール空間で見た、あの腕は一体何だったのか。
「ありがとね。私、バカだからさ、鴨川で泳いだら気持ちいいだろうなーって思って飛び込んだら溺れちゃった。こんな浅いところで」
と適当に辻褄を合わせつつ、せっかく同じ能力を持つ仲間を見つけたと思ったのに、それが単なる勘違いだったことを残念に思った。
飛び石に上がり、彼の背中を前にして岸辺に向かってぴょんぴょん石を飛び越えながら、元の世界に帰らなきゃと思った。もちろん、もう一度転移に失敗して、再びプール空間に閉じ込められたらと思うとぞっとするけれど、そうはいってもこの世界に長居するわけにもいかない。
千絵はパチンと指を鳴らし、それから空中を人差し指で十字に切った。それが時空転移機能の呼び出し合図だった。
だが、何も起らなかった。
普段ならば、座標選択の項目が彼女の意識の中に強烈に介入するはずなのに。
もう一度繰り返しても同様である。
岸辺に着いた彼は振り返り、千絵の悄然とした顔を見て驚いた。
「ど、どうかしました?」
「どうしよ……帰れなくなっちゃった」